走る
聖力の制御の練習は順調に進んでいた。修道院に来てからもたまにカトラリーや書物を傷つけることがあったが、最近はまったくない。練習がてら修道院に張ってある神力の結界に少し力を注いでみたところ、聖女の色彩とされる青白い輝きが現れた。神力と聖力は親和性が高いというのは本当のようだ。
ここに来て聖力を使うという感覚が掴めてきた。力を注ぎたいと祈りをこめれば、私の全身から柔らかな風が立ち上る。それが目指しているところへ吸収されるイメージだ。周りからも私が青白い光に包まれているように見えるらしい。
「これが聖女様のお力なのですね。本当に美しいです」
常に私とともにいるクロエが感嘆する。褒められて嫌な気はしない。
「へへっ。レスリーのおかげだね」
「ヒマリが努力したからよ」
相変わらず線の細い彼女だが、最近は心持ちふっくらしてきた気もする。
そんなレスリーからある提案がなされた。
「試しに修道院の敷地の外を散歩してみない?」
「え……外に出るの?」
「えぇ。うちの護衛騎士と修道院の女性騎士とに手伝ってもらったら、少しの時間なら大丈夫だと思うの」
「でも……」
「ヒマリなら大丈夫よ。あんなに努力して、今では修道院の結界にだって力を注げるようになったじゃない。それに、わたくしも一緒に行くし。ヒマリの力を絶対に暴走させたりしないって約束する」
「レスリー……」
「ね? わたくし、ヒマリと一緒にやりたいことがたくさんあるの。ヒマリは乗馬をしたことはある?」
「乗馬? ないよ。レスリーは馬に乗れるの?」
「えぇ。離宮の周辺のみだけれど、実はずっと練習していたの。わたくし、ヒマリと一緒に馬に乗って出掛けてみたいわ」
「でも私、ひとりじゃ乗れないし」
「あら、わたくし身体は弱いけれど、乗馬の腕前はそこそこなの。騎士たちのお墨付きもあるほどよ。だからヒマリを乗せてあげられるわ。クロエさんは馬には乗れたのかしら?」
「私も実家にいた頃、嗜み程度ではありますが習っておりました。歩ませるだけでしたらなんとか」
「最近は王都の貴族女性の間でも乗馬が流行ってるって本当だったのね。だったらクロエさんも一緒に行きましょう。三人でのお出かけ、きっと楽しいわ。でもまずは、軽い散歩からね。ヒマリ、ずっと修道院に篭っていたんでしょう? 足が鈍っていたら困るわ」
レスリーは笑って、さっそくクロエと予定の打ち合わせを始めた。私はというと、本当に大丈夫なのかと不安が拭えない。それでも、諦めていた外出という夢を提示されて、身体が疼くような気持ちになった。
私の初めての外出リハビリは、修道院の周りを一周するというものだった。丘陵地に位置する修道院は壁と雑木で覆われているため、鐘楼のある塔に登らなければ外界を見回すことができない。周囲もまた、麓の街から修道院に伸びる一本道があるほかは草原が広がるばかりののどかな場所だ。
ただそれだけの光景なのに実際に足を踏み出してみれば、果てを感じないほど清々しかった。草原の中にちらちらと群生する赤い花が、色鮮やかな絨毯の模様のようだ。
「綺麗……」
都会育ちの私には何気ない自然の風景すらも眩しく思えた。修道院の中庭や雑木林も美しかったが、自然が生み出す息吹はまた格別だ。
「わたくしはもう見慣れた風景だけど、ヒマリが喜んでくれて嬉しいわ」
私の手を引きながらレスリーが笑う。
「あの赤い花はなんていう花なの? レスリーは知ってる?」
「えっと、わたくし、花にはあまり詳しくなくて……」
「アネモネだと思います。今がシーズンの終わり頃でしょうね」
後ろからついてくるクロエがそう助け舟を出す。季節は初夏に移ろうとかという頃合い。この辺りはアネモネの群生地だとクロエが付け加えた。
「私がこの修道院に来たのはまだ根雪が残る季節でしたので、この光景は初めて見ました」
一度塀の中に入ってしまえば、外には出られないのが修道院だ。下働きの者は麓の町に出ることもあるが、修道女のクロエは門の外に出ることが初めてだという。
「ヒマリ様がご一緒してくださらなければ、きっと見られなかった光景ですわ」
修道院の周りを一緒に歩きながら、クロエもまた頬を緩ませる。滅多に表情を表に出さない彼女の珍しい態度に、私も嬉しくなった。
「次はもっと先まで降りてみたいな」
「この調子なら行けそうよね」
レスリーがつないだ手に力をこめてくる。何かあっては大変と、彼女の方から手を繋ぐことを提案してくれた。体は細いが手は私よりも大きい。そこにまた安心感がある。
「反対側にも回ってみよう。離宮が見えるはずよ」
「離宮って、レスリーが暮らしているところ?」
「えぇ。実は昔、元気なときを見計らって、何度かこの近くまで来たことがあるの。あの離宮は中よりも外から見た方が綺麗だってみんな言うから」
「私もそれ聞いたことがある。行ってみたい!」
そう返せば、レスリーは突如として私の耳元に唇を寄せた。
「ねぇ、ヒマリ、走るのは得意?」
「え? えぇ。苦手ではないけど」
どちらかというと運動神経は良い方だ。小学生のときはリレーの代表選手に毎年選ばれていた。
「それなら走って行こう。みんなには内緒。いい?」
走る。なんということだろう。この世界に来て私は一度だって走ったことがなかった。たったそれだけの提案で気分がさらに高揚する。
「……うん!」
「じゃあ行くわよ。せぇの!」
声を顰めて相談しあった私たちは、レスリーの掛け声で一緒に駆け出した。
「あっ! ヒマリ様、レスリー様!」
「皆、遅れるな! 追え!」
背後でクロエの小さな悲鳴と、さらに離れたところから護衛の女性騎士達が走り出す音が聞こえた。それを振り切ってレスリーが前を駆ける。彼女に引っ張られるように私も走る。視界の先に修道院の角が見えた。
「あそこを曲がるまでは捕まらずに行こう!」
「うん!」
足の速さには自信があったが、レスリーは私よりも早かった。病弱で深層のお姫様はどこ行った?といわんばかりのお転婆ぶりだ。私も楽しくなって気を入れ直した。
草いきれと麓から登ってくる風が気持ちいい。息を弾ませるのだって久々だ。一心不乱に走って角を曲がり、その先まで走り抜ける。
「はぁ! 着いたよ、ヒマリ! ほら、あれが白鳥の館よ!」
「うわぁ……! すごい!」
曲がってからも勢いを殺さず走った先で、レスリーが急停止した。上がった息を抑えながら見下ろしたのは、緑の平原の中にぽつんと佇むお屋敷だった。
シンメトリーに広がる建物の中央と両端にグレイの三角屋根が聳え、外壁と窓ガラスが日の光を浴びてきらきらと輝いている。すぐ近くには湖も見え、岸には小舟がつながれていた。
「かわいらしいお屋敷だね! レスリーの雰囲気にぴったり」
「うーん、嬉しいような残念なような?」
「え、あんなに綺麗なお屋敷なのに、もしかして嫌いなの?」
「美しいとは思うけど、警備の観点から見ると穴だらけなのよ。どうせなら城壁があるような堅固な造りの住まいであってほしかったわ。まぁ、母は気に入っているようだから、あれはあれでいいのだけどね」
見た目よりも機能重視の考え方になるのは王族に連なる立場からか、それとも今まで命を狙われるような機会があったからか。思わず息を呑めば、レスリーは慌てて首を振った。
「たぶん、ヒマリが考えているような大それた理由じゃないから! ただの好みの問題よ。でもヒマリが気に入ってくれたなら嬉しい。そのうちお屋敷にも来てほしいな。ほら、あそこの湖には毎年冬になると白鳥が飛来するの。朝靄の中、白鳥が水遊びする様子はとても優美で見応えがあるわ。早起きしなくちゃ観られないけれど」
「修道院では毎朝5時半に起きているから楽勝よ」
「あぁそうか、鐘がなるものね。わたくしも早起きは嫌いじゃないから冬になったら一緒に楽しめそうね」
顔を突き合わせて笑っていると、背後から女性騎士たちの不穏な声が聞こえてきた。
「レスリー様、ヒマリ様! 急に走り出すなど……何かあればどうするのですか!?」
「あ、ミアが来ちゃった。大変! ヒマリ、逃げよう!」
「え? また!?」
レスリーに手を引かれ、私たちはまたしても追いかけっこをすることになった。前を走るレスリーの緩やかな金髪が風に弾むのをひたすら追いながら、久々に身体の底から熱くなるのを感じていた。
その日の夕方、クロエにじっとりとした目で見られた。
「ヒマリ様がお元気になられたことは大変喜ばしゅうございます。ですが、突然走られては困ります」
生粋の貴族令嬢のクロエは走ることに慣れておらず、最後尾からほうほうの体でついてきたらしい。
「それにしてもお二人とも騎士を振り切るほど早いだなんて、驚きました」
「私がいた世界では走るのを競う競技もあったくらいだからね。子どもの頃は代表にも選ばれてたよ」
「なるほど。ヒマリ様の事情はわかりました。でもレスリー様も意外でした。お身体が弱くていらっしゃるのに、どこにあんな力がおありなのか」
「そうよね」
レスリーはいつも、ふくらはぎくらいの長さのワンピースという出立ちだ。この世界の社交界デビュー前の少女たちの一般的な服装らしい。そこに平らなブーツを合わせている。対する女性騎士たちは皆騎士服姿だ。魔塔にいたときにちらりと見た仰々しいものでなく、田舎に合わせた簡素で動きやすさを重視した物。普段から鍛えているであろう彼女たちを、一瞬とはいえ引き離すほどのスピードで走り切ったレスリーは、私以上に運動神経が良さそうだった。
「身体は弱いけど、瞬発力とか持久力はあるってことかな」
「それもおかしな話ですけれど」
「でもレスリーって最近、ちょっと顔色が良くなってきたと思わない?」
「それは私も感じておりました。顔つきもより凛々しく美しくなっていらっしゃるといいますか……」
「そうなのよ。もともと力はそこそこありそうだなって思ってたんだけど、なんだか元気になってくれたみたいで嬉しいんだ」
「こちらに通っていらっしゃることで、いい運動になっておいでなのかもしれませんね」
「だとしたらますます嬉しいな」
同年代の女の子よりは華奢で細身だが、がりがりだった頬の線がうっすらとカーブを描くようになり、幼い雰囲気がシャープになってきた印象があった。クロエと血が繋がっていることを考えると、成人する頃にはやわらかい印象よりも硬質な美貌が際立つ女性になっていくのかもしれない。
「それもちょっと残念……。かわいい妹が大人になってしまうようで」
「まぁ、元々ヒマリ様の方が小さくてかわいらしくいらっしゃいますのに」
「かわいいっていうのは褒め言葉かもだけど! 私はクロエみたいな綺麗系に憧れてたの!」
人間無い物を余計にねだる習性があるものだ。まぁ、明らかに日本人顔の私が西洋風のクロエやレスリーと同じになることはできない。
とはいえせっかくできた友人兼妹分の成長は、置いてけぼり感もあってなんだか複雑だ。レスリーはまだ十六だから伸びていく余地があるが、すでに十八の私は今から栄養を取り戻そうとしても手遅れだろう。
「でも、今日の外出がうまくいってようございましたね」
「うん。いつか乗馬もできるといいな、あとレスリーのおうちにも行ってみたい」
「霧立ち込める白鳥の館の冬の美しさは、吟遊詩人が唄に残すほどだと言われております。楽しみでございますね」
聖力の制御は順調で、今日の外出中も何かを壊すことも、護衛の人たちを傷つけることもなかった。すべてレスリーのおかげだと、つないだ手の力強い感触と体温を思い出していた。




