過去
ヒロインが虐待される話があります。苦手な方はこの回を飛ばしてください。次の回から読んでいただいてもつながるようにしています。
日本で女子高生をしていた私はあの日、駅のホームで迫り来る電車の前に身を投げたのだと思う。卒業まであと二ヶ月という、冬の日だった。
思えば子どもの頃はまだ穏やかな暮らしをしていた。両親と私、地方都市の小さなマンションで過ごす、ごく普通の家庭だった。
その生活が一変することになったきっかけは母の死だ。病気を患った母は半年という短い闘病の末、この世を去った。私が十歳のときだ。
母の死をきっかけに、父の心が壊れた。仕事をやめ、酒に溺れるようになった父は私に暴力を振るうようになった。近所の人に通報され、警察や児童相談所のお世話になったことも何度かある。
一時保護されるたびに「帰りたくない」と訴えたが、父が「もう二度としない、妻に続いて娘まで失ったら生きていけない」と愁傷な態度を見せることに施設の大人たちは簡単に騙され、すぐさま父の元に戻された。戻るなり余計なことをしたと殴られる、そんな日々が続いた。住んでいたマンションの家賃を滞納したことで住処を追われ、その街でも治安の特に悪い地域の安アパートに引っ越してからも、その状態は変わらなかった。
父が私のことを忘れるくらい酔っ払っていれば殴られることはないと気づいたのは、中学生になった頃だ。母が生きていた頃の縁をたどって、新聞配達のアルバイトを始めた。稼いだお金でお酒を購入し、家にこっそり置いておく。機嫌のいいときは日雇いの仕事に出ていた父は、仕事から戻るなり買い置いていた酒を飲み、私はアパートの押し入れにこもってそれをやり過ごす。そんな日々の繰り返しだったが、あの頃はまだ平穏だった。
小さい頃は殴られる恐怖に怯えていた私だったが、やがて別の恐怖を覚えるようになった。
私の容姿は、父が溺愛していた母によく似ていた。中学生頃になるとそれがより顕著になって、体つきも大人に近づいてくる中で、ある日、私が眠る布団に酔った父が押し入ってきた。上からのしかかられ、身動きを封じられ、夜着代わりにしていた体操服をめくりあげられ、必死に抵抗すると頬を叩かれた。
久々の暴力に一瞬呆けたものの、生理的な涙が流れたことで我に返った私は、大声で叫びながら渾身の力で父を蹴り上げた。
当時の私の身長は百五十センチ程度で、栄養状態も悪くガリガリに痩せていた。対する父は百八十センチを超える大柄な人で、工事現場の仕事の成果か筋力もあり、そんな父を押し除けられたのは奇跡に近かったと思う。父がひどく酔っていたことと、私が押し除けた勢いで隣にあったテーブルに頭をぶつけて気を失ったおかげで難を逃れた。
起き上がらない父を余所に、私はアパートを飛び出した。がむしゃらに走って逃げこんだ公園の水道で、頭から水を被りながら嘔吐した。中学三年の秋のことだ。
その夜をやり過ごしてアパートに恐る恐る戻ると、父はもういなかった。以後もこの話題に触れられることはなかったので、打ちどころが悪く忘れてくれたのかもしれないとほっとした。
学校は行けたり行けなかったり。勉強もおざなりになることが多くて、公立の高校には進めず、名前さえ書けば誰でも入れる私立の高校に進学した。小学生のときの友人たちとは引っ越しの際に縁が切れ、中学ではしょっちゅう休む上に働かない父がいる噂のせいで、友人らしい友人はできなかった。
高校生になってバイトを増やした。私の境遇をたまたま知った飲食店のご夫婦が、賄い付きで給仕係として雇ってくれたのだ。お給料はそれほどよくなかったが、早くに家に帰りたくない私の事情を察して、二十二時の閉店後に零時までお店に居残ることを許してもらえた点が魅力的だった。それから家に帰り、お酒で大いびきをかいている父の横をそっとすり抜け、簡易の鍵をつけた押し入れで明け方まで寝る。朝の新聞配達はまだ続けていた。睡眠時間は三時間程度。不思議と眠くなることがあまりなかったのは、父がすぐ近くにいる緊張感のせいだったかもしれない。
少しでも母の容姿の面影を消したくて、自分で頭を金髪にし、百円ショップのコスメで厚化粧をした。制服は女子でもスラックスを選べる学校だったのでそれで通った。中学のときと違って無欠席を目指し、見た目は派手でも勉強に手を抜かなかったのは、夢があったからだ。
成人したら絶対にあの家を出て、父から離れると固く決意していた私は、全寮制で学費も無料の看護学校への進学を目指していた。働き詰めと精神的ストレスで受験勉強に不安を感じていたため、学校の推薦枠狙いだった。サボるのが常識の学校で真面目に授業を受けていたこともあり、ここでも友達はできなかったが、努力の甲斐あって推薦枠を勝ち取れた。学校宛に届いた合格の報に万歳喝采したのを覚えている。
これであの家を出ていける、父とも離れられる。そう心躍らせながら、残り数ヶ月の高校生活を耐えようと家に戻ると、いつもなら仕事でいないはずの父が仁王立ちしていた。
「おまえの入学の件は断っておいた。親に黙って勝手なことしやがって……っ! 訴えるぞと言ってやったら、ちゃんと取り消してくれたぞ」
どうやら私がいない間に父宛に、看護学校から電話連絡があったらしい。すべて学校宛に連絡してくれるよう手配していたはずなのに、伝達ミスがあったようだ。
父は私の腕を掴んだかと思うと、薙ぎ払うように押し倒した。
「本当に勝手なことばかりしやがって……っ。おまえは俺のモノなんだよ、一生逃げられると思うな!」
二、三度頬を平手打ちされ、生理的な涙に苛まれる。
「あぁ、その目、母さんそっくりだ……。俺の、俺の……っ」
ニヤリと嫌な笑みを貼り付けた父は、押さえつけた私の制服のベストをたくし上げた。近くで繰り返される荒い呼吸に顔を背けながら、剥ぎ取られそうになる衣服と身体を守って……どうやって逃げ出せたのか覚えていない。
気がつけば私は駅のホームにいた。すぐ先の踏切の音が、わんわんと頭の中に響いてくる。
逃げられると思った。私は成人して、仕事も手に入れて、ひとりで生きていけると思っていた。だが、努力して掴んだ一筋の希望は呆気なく潰された。
今日はバイト先の定休日で、行く宛もない。否、行ったとしても、最終的にはあのアパートに戻らなければいけない。そしてアパートには、アイツがいる。
ニゲラレナイ、ニゲタイ、ドウヤッテ、ドコヘ……?
心が叫んでいる。もう、疲れた、でも逃げなきゃ、と。
混乱する頭の中に、電車の到着を告げるアナウンスが流れてきた。おもむろに顔を上げる。あれに乗れば、どこか別の世界へ行けるだろうか。いや、もっと確実な方法があるじゃないか。行き先の決まった電車に乗るよりも、もっと遠くへ、逃げるのにぴったりな場所がある———。
白線を踏み越えるのは簡単だった。なぜもっと早く気がつかなかったのだろう。疲れすぎて足元が見えていなかったのか。
ニゲタイ、ニゲヨウ、いや———飛びたとう。
誰も私を追ってこない世界へ。誰も私を知らない世界へ。
顔をあげた瞬間、青白い光が私を包んでいた。懐かしい色の光だと思った。ずっと昔、この世に生まれ出たその日に、見たことがある景色のようだと、思い出すほどに。
『……ヒマリ!』
誰かが呼ぶ私の名。この世に生を受け初めて聞いた母の声か、それとも違う人か。その声はひどく温かく、そして愛しい。私を守る声、私が追いかけた声。
光の中を浮遊する不思議な感覚。私の日本における最後の記憶は———そこで止まっている。




