婚約者
2025年4月27日に一章と二章を統合させる改稿を行っています。旧作品を読まれていた方は「出会い」の回から読み直していただけますと展開がわかります。ご迷惑をおかけいたします。
いつもの午後。毎日二十分ほど聖力の制御の練習をしたその後はティータイムだ。
今日のおやつはリンゴ。以前お菓子を出したところ、レスリーが困った顔をした。
「その、甘い物を控えるようにと主治医から言われていて。わたくしの身体にはあまり合わないようなの」
お茶だけでいいと固辞するレスリーだったが、色々尋ねた結果「果物を少しだけなら」と返事をもらった。そのためこの時間は果物が出てくることが多い。せっかくの女の子同士のお茶会だ。お茶請けがあった方が楽しいに決まっている。
この時間はクロエにも混ざってもらっておしゃべりをする。レスリーは学校には通っていないが、クロエと同様とても博識だった。家庭教師に習って勉強していて、歴史や地理の本をよく読んでいるとのことだった。
「流行りの小説などはあまり読まなくて。母は恋愛ものの小説が好きだからお屋敷にはたくさんあるのだけど、わたくしが興味を持たないものだからがっかりしてるのよ」
「意外ね。レスリーなら物語のヒロインが似合いそうなのに。守ってあげたくなるようなタイプだもの」
「どちらかというとヒーローに憧れるわね。剣や魔法を颯爽と使いこなしてみたいと思うわ」
「それも楽しそう! ね、クロエはどう? 物語の憧れのシチュエーションとかある?」
「小説は嗜み程度には読んではおりましたが、あまり自分を重ねることはありませんでしたね。あぁでも、私はよく悪役令嬢みたいだと言われておりました」
「えぇ!? 悪役令嬢?」
「はい。ここ数年、王都で流行っている小説のシリーズがあるのです。身分の低い女性がヒロインで、王子や騎士と恋に落ちるのですが、その王子や騎士には政略的な関係の婚約者がいて、ヒロインに嫌がらせをするのです。その婚約者のことを悪役令嬢と物語の中では呼んでいました」
「やだ、私がいた世界でも似たような話があったよ。私は読んだことないけど。クロエが悪役令嬢? 全然似合わない!」
「そうよ。クロエさんみたいな方はむしろ全女性の憧れだから、気にしなくていいと思うわ」
私の意見にレスリーも同調する。クロエは静かに微笑んだ。
「お二人とも褒めすぎです。でも、ありがとうございます」
「でも、十代で婚約者なんて、私からしたら物語の中だけの話って印象だけど、実際にあるの?」
「そうですね、貴族の間では多いと思います」
「クロエやレスリーにも婚約者がいるの?」
私の何気ない質問に、二人が困る様子があった。話の流れで口にしただけだったが、立ち入りすぎたかもしれない。
しまったと思ったが、もう遅かった。
「わたくしは、色々立場が難しいこともあるので、特にそういう話はないわ。それに健康とも言い難いし、おそらくそのような話は今後もないかと」
レスリーがぎこちなく笑えば、クロエはカップを置き、顔を上げた。
「私も、今はそういった話はありませんが、修道院に来る前には婚約者がおりました」
「そうなんだ……。ごめん、なんとなく流れで聞いちゃっただけで、深い意味はなかったの。これ以上聞きたいとは思わないから、大丈夫よ」
「いえ、ちょうどいい機会です。ヒマリ様にはお伝えしておかなければならないと思っていました。私が言わなくても、どこかで必ずお耳に入ることになるでしょうし」
そしてクロエは、軽く俯き目を伏せた。
「私は以前、ハーラン王太子殿下の婚約者でした」
「えぇ!? ハーラン王太子殿下って、アレ?」
つい不敬な言い方が飛び出したのを慌てて手で押さえる。幸い、一国の王太子を「アレ」呼ばわりしてしまったことを咎める者はこの場にはいなかった。
「私が生まれてすぐ、半年ほど先にお生まれになっていたハーラン王太子殿下との婚約が整いました。我が家は父が公爵であり、母はトール陛下の姉です。身分的にも釣り合いがとれているということで、政略で決まった婚約でした」
「そうだったんだ……。ハーラン王太子殿下とは従兄弟に当たるのよね。まぁ従兄弟でも結婚はできるか」
「血が近いこともあって両親は難色を示したようですが、マテラ王妃様が強く望んだと聞いています」
「へぇ、クロエは王妃様に気に入られていたのね」
「血筋だけの話かと思います。長じて王城にあがり王太子妃教育が始まるようになると、あれこれと叱責されることも多かったですから。王妃様はガンナ帝国のご出身で、帝国の現在の皇帝は実の兄君です。軍事国でもある母国の後ろ盾は強力ではありますが、王太子殿下共々、我が国での足場をより強固にして盤石の体制を取ろうと、貴族の筆頭のひとつであるヨーク公爵家の力を望まれたのだと思います」
自分を落ち着かせるようにお茶に口をつけ、クロエは話を続けた。
「それに、ハーラン王太子殿下にもひどく嫌われておりました」
「えぇ!? クロエのどこに嫌いになる要素があるの? あの人どうかしてるんじゃない?」
「ヒマリ様、私は平気ですが、どこで誰が聞いているかわかりませんので、お言葉にはお気をつけください」
「あ、そうだった。それに、王太子殿下はレスリーのお義兄様でもあったのよね、レスリーもごめんなさい」
「いいえ、わたくしも全然気にしないわ。義兄とはいっても、わたくしたち親娘も嫌われているし、会ったこともないもの」
レスリーとハーラン王太子の関係の微妙さは事前に耳にしていたが、当の本人からもこのような発言だ。やはり仲は良くないようだ。
「義兄太子のことは、わたくしのお屋敷でも噂になっていたわ。クロエさんのことを色々蔑ろにしていたって」
「すべて私が王太子殿下の婚約者として至らなかっただけにございます。殿下は別のご令嬢を愛されて、さらに私がその令嬢をいじめたと言われ……もちろん、濡れ衣ではありますが、それが元で学園の年末の卒業パーティで婚約破棄を宣言されました。その結果、王太子の婚約者として勤め上げられなかった私は公爵家の家名に泥を塗ったということで、実家にも居づらくなりまして、結局修道院に入ることになったのです」
「なにそれ……」
クロエとハーラン王太子は同じ学園に通う同級生だったと聞いたことがある。その学園では毎年卒業生を祝うパーティが開かれるそうだ。出席者は卒業生だけで、本来ならひとつ下の学年だった王太子とクロエは対象者ではなかったのだが、国王陛下の容体が今ひとつだったこともあり、王太子が王族代表として特別に出席することになったらしい。
「卒業パーティで、かつ王族代表ですから、同伴の女性が必要になります。当時は私が婚約者でしたので、出席せざるを得ませんでした。けれど殿下にエスコートはしてもらえず、ひとりで会場に赴いたところ、殿下は別の方をエスコートして現れました」
「あぁ、サマー・ヒックス男爵令嬢のことね」
「レスリー様のお耳にも届いていたのですね」
サマー・ヒックス男爵令嬢は、王太子やクロエと同学年の少女で、殿下の新たな恋人らしい。
「サマー……、確か殿下があのとき口にしていたのが、そんな名前だった気がする」
王太子が魔塔で私の部屋を突然訪れたとき。「サマーには劣るが、あの取り澄ましたデカ女よりはマシか」と、私の顔を見るなり言ったのだ。
「待って、それじゃぁ“あの取り澄ましたデカ女”って、クロエのことなの? 何それ超失礼じゃない!」
「あの、私は背が高いので、横に並ぶなとよく叱られていましたから、そのせいかもしれません」
「そんなの横暴よ!」
「ヒックス男爵令嬢はヒマリ様のように小柄で愛くるしい方でしたので、殿下もこのような愛想のない高身長の女より、彼女に惹かれるのも無理ないことかと」
「いやいやいや、だからってあの言い方はないわ。自分の背の低さを棚に上げてるだけじゃない! 背の高さで男性の価値が決まるとは思わないけれど、なんというか、ないわ」
あのときしっかり対峙したからおぼえている。彼は百五十五センチの私よりは大きいが、それまで会ったこの世界の男性陣に比べると小柄だった。レスリーと同じくらいかもしれない。
だからこそ、最初は「怖くない」と思ったのだ。
嫌なことをこれ以上思い出さないよう頭を振ると、レスリーが心配そうに口を開いた。
「ヒマリは義兄に会ったことがあるのよね。大丈夫だった? ほら、ヒマリもかわいいから、あの人に気に入られそうだなって」
「え? いやいやいや、私が気に入られるなんてこと……」
あるはずない、と続けようとした瞬間、どくりと心臓が跳ねた。
「ヒマリ?」
「あ……」
思い出してはいけない、これは思い出さない方がいい記憶。そう思って追い出そうとしても、背中を伝う冷たい汗にぶるりと身体が震えた。震えは背中から瞬く間に広がっていく。先ほどまで温かい茶器に触れていた指先までもが、凍るように冷たい。
「ヒマリ様、大丈夫ですか?」
「ヒマリ!?」
「あ、だいじょう……」
「顔色がよくないわ。クロエさん、院長を呼んできて!」
「はいっ!」
彼女たちの声が、すぐ近くで発せられているはずなのに、どこか遠く聞こえる。それよりももっと近くで響くのは、ここにいないはずの王太子の声だった。
『喜べ。この俺が、おまえに情けを恵んでやる……!』
目の前に、王太子がいる———いや、これは幻影。ここは女子修道院で、護衛や魔道士でさえも男子禁制の場所。違う、これは本物じゃない。私を痛めつけるその手も、服を引き剥がすこの手も、本物じゃない。
《《アイツ》》でもない———。
「ヒマリ! しっかりして、ヒマリ、ヒマリ……っ!」
身体ががくんと傾いたかと思うと、頭にかかった靄を払うかのような強い声が私を揺さぶった。膜が張っていた瞳がぼんやりと焦点を結ぶ。
「ヒマリっ! こっちを見て!」
「……レスリー?」
「そう! 私よ、私を見て!」
真正面にレスリーの紫紺の瞳があった。眼鏡を通しているとは思えぬ綺麗な色合いのその目がゆっくり瞬く。
王太子の瞳は確か水彩絵の具のような薄い青だった。こんなに綺麗な、深い色合いではなかった。
「ヒマリ、大丈夫!?」
「あ……私」
「良かった……っ!」
そのままぎゅっと背中に手を回される。冷や汗が滲んでいた全身がふわりと温もりに包まれた。
「レスリー、あの、ありがとう。もう大丈夫だから」
「ほんとに?」
まるで消え入りそうな私を留めおくかのように、しっかりと強く、彼女が私を抱きしめていた。驚くほど痩せているレスリーだが、支えられるような強い安心感がある。私よりも高い体温が肌に心地よい。
「良かった、なんだか倒れてしまいそうなくらい、顔色が悪くなったから」
「心配かけてごめんなさい、ちょっと、嫌なことを思い出しちゃって」
「嫌なこと?」
レスリーが問いかけたとき、院長を呼びに行ったクロエが戻ってきた。そのまま部屋に戻ることを勧められ、立ちあがろうとしたそのとき。
「ヒマリ、待って」
レスリーが再び私の正面に回り眼鏡を外した。おもむろに顔を近づけてきたかと思うと、そのまま額をおでこにこつん、と当てた。
「レスリー?」
「おまじない。もう、悪い夢を見ないように」
肩に添えられた手からも、触れ合った額からも、じんわりと温かい空気が流れ込んできた。聖力のコントロールの練習をしているときと同じ、身体がふわりと軽くなる感覚。
「……昔、病気のときによく母がしてくれたの。おまじないだって」
レスリーがそうはにかむ様子を見て、私の強張りがまたひとつ解けた。
「ありがとう。なんだか、元気が出た」
「わたくしもヒマリと触れ合っていると、力が湧く気がするの。これが神力と聖力が交わっているってことなのかしら」
「よくわからないけど、でも、私もそんな気がする」
「じゃあ、きっとこれが正しいのね」
そのまま数秒、私に力を渡すかのように祈りをこめた後、レスリーは離れていった。彼女の額と手が離れた後も、もらった温もりが消えることはなかった。




