04. 「天羽生えみり」
残業を終えての、いつもの通勤路。
会社から駅へと向かう車通りの多い道で、私は疲れから少しばかりぼんやりしながら信号待ちをしてた。
そこにものすごい勢いで迫って来た、真っ白な光。
遅れて聞こえてきた、耳障りなブレーキ音。
あ、と思った時には、私の身体は宙に放り出されてた。
「……事故、に……遭って……」
ズキズキと頭が痛んで、視界がぐらりと揺れた。
私がその場にぺたんと座り込む間にも、記憶は流れ続ける。
ちっとも動かせない身体に、周りの人達が何か叫んでいるような声。
不思議と痛みは感じなかったけれど、寒い、と思ったような気がする。
真っ暗で、何も見えなくて、そうしてその内に音も聞こえなくなって――
――あぁ、そうか。
私は、えみりは、死んでしまったんだ。
そう理解した途端に、ぽとりと涙が落ちた。
「天羽生えみり」は死んで……じゃあ、今の私は?
ぽとり、ぽとりと涙が零れ落ちていくのが分かるけど、拭う気にはなれなかった。
「エミリ、か」
すぐ近くで落ちた声にのろのろと顔を上げると、ルドヴィクが私を見下ろしていた。
「ではエミリ。お前は、エミーリアの身を乗っ取った悪しき者、という事か?」
悪しき者、という言葉にびくっと身体が揺れる。
「ち、ちが……私……私は……」
「私」は――何だろう?
ルドヴィクの言う通り、エミーリアの身体を乗っ取ってしまったの?
「悪しき者」で、本当はここにはいてはいけない存在なの?
ぐるぐると混乱している私の顎が大きな手で掴まえられる。
そうしてぐっと持ち上げられて上向かされた私の目に映ったのは、すごく恐い顔をしたルドヴィク。
射るような視線で貫かれた私の中で、何かがぷつんっと切れた感じがした。
零れる涙がぽとりぽとりからぼたぼたになって、遂にどばっと大洪水を起こした。
涙でよく見えなかったけど、ルドヴィクがぎょっとしたような気がする。
だけど私は自分が死んじゃったらしいとか、何でエミーリアになってるのとか、推しは怒った顔しててもやっぱり格好良いとか、もう色んなことがぐちゃぐちゃになって訳が分からなさ過ぎて、
そうしてわんわん泣いた。
こんな風に大きな声を出して泣くのは小さな頃以来だというくらいにわんわん泣いていた私は、だけど突然ぶわっと宙に浮いたような感覚に悲鳴を上げた。
その衝撃で、涙がちょっと引っ込む。
「……そう酷く泣くな」
どうやら床に座り込んでた私を抱き上げたらしいルドヴィクが、少し困ったような顔をしてそう言った。
そしてそのままベッドの上に下ろされる。
「お前も混乱している、という事は伝わった」
ルドヴィクの手が涙を拭う。
ごしごしと涙を拭ってくれながら、黙り込んで何か考え込んでいたルドヴィクがふぅと大きく息を落とした。
「――とりあえず『エミリ』が何者か、話せ」
話せ、と言われたから、私はまだ収まらない涙を時々拭われながら一生懸命話した。
天羽生えみりはここではない世界の人間で、事務の仕事をしていた21歳の独身女だったこと。
さっき思い出した記憶から、多分その世界で事故に遭って死んでしまったこと。
ここはその世界で大好きだった小説の世界かもしれないこと。
エミーリア・フィシェルもルドヴィク・グレンダールも、その小説の登場人物だということ。
そして迷ったけれど、聞かせろと言われたのでその大好きな小説のあらすじまで――
自分が話せること全部、とにかく一生懸命話して、そうして私の話が終わった頃にはルドヴィクはものすごく難しそうな顔になってた。
「半年後に、エミーリアが死ぬ……?」
まず出て来たその言葉に、話している内に少し落ち着きを取り戻し始めていた私は何だかとても申し訳ない気分になって、肩をすぼめながら「小説では」と答える。
「で、でも、もしもこのままだとしたら、とりあえず弱って死んじゃうって事は、ない……と…………中身が全然違いますけど……」
ごにょごにょと付け足した私に、ルドヴィクは真面目な顔をして頷いた。
「そうだな、エミーリアとは随分と違うようだ」
そう呟いて、ルドヴィクはまた腕を組んだ。
何か考えてるのかなと、黙って次の言葉を待っていた私にちらりと視線を向けて、ルドヴィクは一つ頷いた。
「俺としては、跡継ぎが儲けられるのであれば儲けたい」
「…………跡継ぎ?」
突然何の話? ときょとんとしてしまった私に、ルドヴィクは分からないのか? とでも言うように、ほんの少し片眉を上げた。
「養子でも構わないが、俺の血を継ぐ者が産まれるのであれば、当然その方が良い。そして俺の妻は、エミーリアだ。俺は愛妾など持つ気はない」
「あ……」
「このままなのかどうかは、お前――エミリにも、分からないのだろう?」
「は、はい……全然分かりません……」
「ならばしばらく様子を見る――が、俺もそう気は長くない」
「……えぇと……それは、私でも抱く、という……?」
「明日になってもそのままだった時は、覚悟を決める事だ」
そう言って、仕方がないから今晩はこのまま寝る、とベッドにごろりと横になったルドヴィクを、私はぽかんと見つめた。
「……明日は〝しばらく〟ではないと思います、けど……」
「気は長くない、と言っただろう」
「いや、短すぎでは……」
さすが征服王というべき? なんて思ってたら、ルドヴィクがまた溜め息をついて仰向けの体勢から横向きになって、ベッドに肘をついた。
そして反対の手が持ち上がって、私の――エミーリアの髪を緩く引く。
「別に俺は、今すぐに抱いても構わんが?」
にやりと口端を上げたルドヴィクの言葉に、私の心臓がぎゅんっと跳ね上がる。
「だが、俺は混乱して泣いている女を強引に抱くほど非道ではないからな」
「……怯えてるエミーリアを強引に抱こうとしていたのでは……?」
「怯えていようが、あの場合は合意だろう?」
「えぇ……?」
何かすごくめちゃくちゃでは、と思ったけど、でもじゃあ、と思い直す。
こくりと唾を飲み込んで、ふわふわとエミーリアの髪を弄んでいるルドヴィクを見つめる。
「わ、私は、全然……エミーリアみたいに、お淑やかじゃ、ありません」
「そうだな」
「ルドヴィクは、エミーリアの性格も好きなんですよね?」
「そうだな。少々気弱ではあるが、そこもまた唆られる」
「それなのに、私のまま、でも、良い……んですか……?」
ルドヴィクは私の顔をじっと見つめると、今度はふっと少し可笑しそうに笑った。
そしてつん、と髪を引かれる。
「その顔でくるくる表情が変わるのも、ぽんぽん言い返されるのも、悪くない」
ルドヴィクのその言葉に、私はぎゅうっとナイトドレスを握りしめた。
私はルドヴィクが好きで、何度も何度も読み返すくらい大好きで。
だけどもしエミーリアを乗っ取ってるような状態だとしたら、すぐにでも消えちゃうかもしれなくて……
どういう訳だか折角大好きなルドヴィクが目の前に居るというのに、このまま何もせずに消えちゃったりしたら、きっと死んでも死にきれない。
――いや、もう死んでるっぽいけど。それはまぁ置いておいて。
だから、本当のエミーリアには大変申し訳ないけど――!
「じゃ、じゃあ……! このまま、私を、抱いて欲しい……です!」
叫ぶようにそう言った私をルドヴィクは少し驚いたように見つめて――そしてさっきよりも強めに、髪を引いた。
引かれるままに身体を傾けると、ぐいっと頭を引き寄せられて噛み付くみたいなキスをされる。
「ん……っ」
驚いて離れようとしたけど、後頭部を押さえている手にぐっと力が籠って、キスがもっと深くなる。
「っ……まっ……」
引き寄せられた時に咄嗟にベッドについた手に、突っ張るようにぐっと力を込めてうーうー言ってたら、ルドヴィクはやっと手を緩めた。
はふっと息をした途端にくるんと視界が回って、ベッドに押さえつけられる。
――これ、最初とおんなじだ
そう思いながら見上げると、ルドヴィクの顔がゆっくりと下りてくるところだった。
はらりと落ちたルドヴィクの前髪が私の顔をくすぐるのと同時に唇が重なって、今度は啄むような優しいキスを、角度を変えながら繰り返される。
何度目かのキスでちゅっと小さな音を立ててルドヴィクが離れると、それを追うように瞼を持ち上げる。
「やはり嫌だ、とは言わせないぞ」
鼻が触れてしまいそうな距離で囁かれるように言われて、気まずくて少しだけ視線を逸らす。
「嫌って事じゃなくて……苦しくて……」
離れようとしていた事がお気に召さなかったらしいルドヴィクは、そう答えた私に僅かに目を瞠った。
「だ、だって、急にあんな体勢でキスされたら、苦しい、です」
私は悪くないと、少しの非難を込めて言ってみたらルドヴィクがふっと笑った。
……なんかすごく意地悪そうな顔なのに、心臓がきゅんってする。
「それは、すまなかった」
またゆっくりと重なった唇に合わせて慌てて目を閉じると、唇の隙間からルドヴィクの舌が入ってきて、私はぎくしゃくとそれを受入れた。
舌を絡められて、恥ずかしくて逃げようとしたけど、またすぐに絡めとられてしまう。
何とか必死で応えてる間に、ルドヴィクの手がナイトドレスの上を滑った。