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祖と、故と

作者: 春秋梅菊

一、1936年

 その日、北平(ベイピン)中南海(ジョンナンハイ)公園広場は、美しい花の香りをかき消すほど、重苦しい空気で包まれていた。

 何十人もの学生達が一カ所にかたまり、激しい論争を繰り広げていたのだ。たまたま友人の(フォン)に連れられて広場を通りかかった私は、それが抗日を訴えるためのオリエンテーションだということを知った。

 オリエンテーションの主催は軍部の抗日工作員の人間だ。端的に言うと、こうした催しは北方の満州国建国後、中国本土に深く爪を突き立てている日本に対し、中国人全員の危機意識を高めるため行われているのだった。

 私の隣を歩いていた風は、この光景を見るなりため息をついた。

「まったく、気楽に散歩させてくれるような空気じゃ無いなあ」

 紫禁城の西に位置する中南海は、古くから皇帝ら一部の人間にのみ立ち入ることを許された場所だった。離宮や庭園はかつて皇帝を始めとした高位の人々の避暑地として使われた。清朝が滅び中華民国となってからは、政府の要人達が政務をする場所だった。が、その政府も十年前に南へ移り、その後中南海は一般の人々に公園として開放されたのだった。

「仕方ないさ。時代が時代なんだよ」

私はそう答えた。

「若いってのは、いいなあ。国のことなんてよくもまあ考えていられるもんだ」

「風さんは家庭という国を治めるので大変だろうからね」

 軽口を叩くと、風もハッハと笑った。それから私は、学生達に視線を戻した。

 彼らは今まさに「満州を占領している日本軍が万里の長城を越えて北京へ侵攻したら、我々はどう戦うか」という議題について論争を繰り広げている。

 愛国心ある中国人なら、いやたとえそうでなかったとしても、日に日に国土が侵されていくのを黙って見る者はいない。誰もが立派な意見を述べた。日本軍の城壁の中への進入は断固として阻止する、死ぬまで戦う、銃弾が尽きても生身の体でぶつかって相手を倒す……。心の底に秘めた思いは、誰もが同じだ。

 やがて、発言の順番がとある女学生までまわってきた。見たところ十四、五歳、色白で、顔立ちは上品さと愛らしさを併せ持っていた。彼女の周りには同級生らしい他の女の子もいたが、おかげでその美しさが殊更際立って見える。

 周囲の人々がそうだったように、彼女もまた日本に断固立ち向かう発言をするものと思われた。

 ところが、彼女は第一声にこんなことを言い放った。

「私は、北京の城壁に立ちます」

 その発言に眉をひそめたのは、決して私だけではなかっただろう。隣の風もそうだったし、学生達もそうだった。

 討論会の司会者をしていた男が、訝しげに問い返した。

「城壁の上に立つと言ったけれど、それはどういう意味?」

 女の子は一瞬答えに窮したが、やがてしっかり目を据え、はきはきと答えた。

「外から攻めてくる日本人と、中から国を守る中国人の間に立つという意味です」

「立つだけ?」

「はい」

 女の子には、彼女なりに何か芯の通った道理があるようだった。言葉にも態度にも迷いは感じられなかった。

 その場にいた数十人余りの人々は、ひそやかに言葉を交わした。

 ――何にもせず城壁の真ん中に立ったところで、敵に撃たれるだけじゃないか。

 ――そんなことを言ったって、若い娘だ。武器を持って戦うなんて出来やしない。

 ――ということは、日本が侵攻してきたら彼女は城壁に立って中国の盾になるというのだろうか……。

 女の子の発言は、戦わないという一点を除けば、別段愛国心に欠けているわけでもなかった。武器を取るだけが国への忠誠を示すしるしではない。ましてこの場の人間は殆ど学生で、口では戦うと言っても、それが実行に移せるかは全く別次元の話だ。軍に身を投じるにしても、少し頭の良い者であれば、国の中枢である政府がもう何十年もまとまりを欠き、ろくに日本へ立ち向かえていないことはわかっていた。彼女が銃を持った軍隊の前に身を盾として立ちはだかるのも、尊い自己犠牲の精神の表れと考えれば差し支えはないだろう。

 女の子の発言の根本にあるものが何なのかははっきりしなかったものの、人々はその意見を肯定的に捉えて自分達を納得させ――もしかすると、女学生の清純そうな美しさも理由の一つだったかも知れない――、それ以上の言及はしなかった。再び、活発な議論が始まった。

 私だけはまだ、その女の子の発言のことを考えていた。しきりに日本人との徹底抗戦を叫ぶ学生達の中、彼女の言葉にほっとするものを感じずにはいられなかった。

 私にとって中国は故国であり、祖国ではないのだ。

 

 夕方、風と別れて散歩から帰ると、私の店前にぽつねんとたたずむ人影があった。背が高く、刈り上げた頭と浅黒い肌。私はそれが高強(ガオチャン)だとすぐにわかった。二十歳のトラック運転手で、歴史教師になるべく勉強している有望な若者だ。彼は私の書店で買ったと思われる本を七冊ばかり脇に抱えていた。向こうも私に気がつき、きびきびした足取りで近づくと、挨拶を述べた。

 若者の面持ちは厳しく、いつもの親密な雰囲気は無い。私は努めて明るく言葉を返した。

「やあ、高強。その本はうちのだろう? 売りに来たのかい?」

「いいえ。引き取ってもらいに来ました」

「遠慮することはないよ。安くはなるけど、買い取ってやるから」

「それには及びません。もう戻ってこられるかもわからないので」

「何だって?」

「北平を出ます」

高はきっぱり告げた。その意味するところは明らかだ。私は彼の瞳に宿る決意の色を見て、呆然とするしかなかった。

「出るというのは、その……」

「はい。ここを出て、日本と戦いに行きます」

 周りに聞かれてはことだと思い、私はすぐさま高を店の奥へ引き入れた。それから若者を見据え、どうにか落ち着いた口調で告げた。

「日に日に、雲行きが怪しくなってる。気持ちはわからなくもない。しかし、君のように若いのが――」

「若いからこそ行かなくては。それにもし生き延びた時のことを考えると、歴史を学ぶ人間として、やはり歴史の作られる場所の中心にいなければと思うのです」

「君のそういう真面目な部分は尊重するよ。だけど、それでもし死んじまったら……」

「その時はその時です」高はようやく、厳しい面持ちをいくらか崩した。「誤解しないでください。国を思うあまり死に急いでるわけではありません。これでも、少ない頭で長いこと考えたのです。今私に出来る一番のことは、戦いだと思います」

 私は何と言い返したものかわからなかった。高の話は正しい。ただ私は自分の立場として、その正しいことが嫌なのだ。この男が日本人を殺すのも、日本人に殺されるのも真っ平だった。

「あなたには本当にお世話になりました。余り長く立ち話をするわけにもいきません。では、これで」

 高は私に会釈すると、カウンターに携えてきた七冊の本を置き大股で店を出ていった。

 私はその後ろ姿を見送り、何ともやるせない気持ちに襲われた。よろめいて力無く床に座り込むと、ふっと重いため息が漏れてくる。

 中国は私の祖国ではない。故国だ。私は日本人だった。

 だからこそ、日増しに強くなる抗日の運動が私には苦しかった。

 故国に対する思い入れは、祖国へのそれに勝るかもしれない。育ちのせいもあるが、私はどちらかというと、人間としての性質は中国人に近かったのだ。

 私は日本で生まれ、物心つかないうちに両親と中国へ移り住んだ。以来、書店を営む父を手伝いながら、上海の(ホン)(コウ)で暮らしていた。

 人格者で、差別を何より嫌っていた父の影響か、私はあまり虹口に住む隣人の日本人達と仲良くなれなかった。彼らは中国人を三等民族だと見下し、何の根拠も無く自分達が優れているのだと威張り散らしていた。もちろん、隣人全員がそうであったわけではないが……。同じ日本人として、私は何だか恥ずかしかった。

 二十四の時、両親は事故で亡くなった。私は店を受け継いだものの、周囲の日本人とは折り合いが悪く、とうとう些細なきっかけからもめ事を起こした。

 そうして逃げるように上海を出た私がたどり着いた先が、ここ北平だったのだ。私は中国人を名乗って、表向きは自分が日本人であることを隠して暮らしていた。

 以来八年余りが経つ。北平での暮らしは静かなものだったが、私はそれを愛していた。しかしここ数年、平穏な生活の雲行きが怪しくなってきたことを感じずにはいられなかった。

 私は中国人が嫌いではなかった。特に北方の人々は皆素朴で親しみ深い。当時上海から逃げてきたばかりだった私の心の傷を、暖かく癒してくれたのも彼らなのだ。

 だが安らかに暮らしたいという私の願いとは裏腹に、祖国日本は中国への侵略を繰り返し、とうとう中国の北に傀儡国まで建ててしまった。私の耳には、国を想う中国人達の歯ぎしりの音が聞こえ、それは日増しに大きくなっている。

 中南海公園での問いかけが、私の脳裏にもこだました。

 もし北の日本軍が長城を越えて中国を侵略してきたとしたら、一体どうするべきか?

 ――私は、北京の城壁に立ちます。

 あの女学生の言葉が、また耳元で聞こえてくるかのようだった。

 

 

二、1940年

 朝早くに風が私を訪ねてきた。

「日本人が増えてきたね」

 開口一番に彼はそんなことを言った。

 三年前、日本軍は北平へ侵攻した。以来、日本人が次々とこの土地へ移り住むようになったのだ。北平の人々は彼らをなるべく避けるようにしていた。日本人もとりたてて中国人に構うようなことは無かった。とはいえ、移住する日本人が今後も益々増えていけば、必ず両者の間に軋轢が生じるだろう。

 私は煙草をふかしながら答えた。

「何にも起こらなければいいね」

「そうとも。それが心配ってもんだ。変に愛国心を持った奴らが、新しい隣人の家を爆発なんぞしてくれなけりゃいいんだがね。日本人はとりたてて俺達を酷く扱ってるわけでもなし、連中の神経を逆撫でするような真似は、避けておくべきだよ」

 私は遠慮がちに、小さく頷いた。

 思い返せば、北平の占領はあっという間の出来事だった。日本軍はみだりに虐殺や略奪を行うことはしなかったものの、抵抗分子の捜索と排除には余念が無く、北平の人々は常々自分に疑いがかけられるのを恐れていた。しかしそれを除けば、生活にそれほど大きい変化も無かった。

 しかしながら、風の発言は少々行き過ぎたものだと思わざるを得ない。私が遠慮がちに頷いたのもそのためだった。愛国心に溢れた中国人が風の言葉を聞いたら、拳を振り上げて殴りかかっていただろう。

 とはいえ風は根っからの中国人、それも昔からいるようなタイプの中国人だ。彼は強いものと弱いもの、長いものと短いものをよく心得ていて、強いものにはおもねり、長いものには巻かれようとする人間だった。

 人づき合いがよく、弁舌巧みでお洒落好き、様々な娯楽を知り尽くし、その遊び方もよく極めている。

 中国の長い歴史をかえりみれば、官僚で出世するのはこういう類の人間だった。しかし彼らの一部は、その所業の行き過ぎたことがたたって漢奸(かんかん)(売国奴のこと)と呼ばれる。風は漢奸とまでは呼べないかもしれないが、そうした人間らしい気質を持ち合わせているのは確かだ。風は日本人が侵攻してきても、彼らへの抵抗を考えるどころか、どうにかして友好関係を結ぼうとあれこれ思案していた。

 風の叔父は地元でも知られた官僚で、引退した後に財産を丸ごと甥へ与えた――というのも、その叔父には妻子がいなかった――のだった。彼はその財産と家柄の良さを駆使して上の人々に取り入り、取引や商談などの仲介をして稼いでいたが、政府が南京に移って以来、絶好の生業を失った。そこで今度は新たな権力者である日本人と、その傀儡政権の中国人に商売相手を乗り換えようとしている。

 私は風に、来訪の用件を尋ねた。すると相手は白い歯を見せて鷹揚に微笑んだ。

「なあに、映画でも見に行こうと思ってな」

「娘さんと行けばいいじゃないか」

「あいつは家内と一緒で、外に出たがらないんだよ」

 風は夫人との間に一人娘をもうけており、名前を小若(シャオルー)といった。読書好きの、内気だが芯の強い娘だった。今年で確か十七になる。私の知る限り、彼女は父親を余り快く思ってはいなかった。彼女は学校に通い、愛国心に溢れた同輩の男達を見てきたから、誇りの感じられない父親の生きざまが気に食わないのだろうと、私も容易に察することが出来た。しかしこんな時代でありながら学校へ行き、好きな本を読み、よく食べぐっすり寝ていられるのがその父親のおかげであることを思えば、彼女もそこまで強い反抗は出来ないのだ。

「それで、何の映画を見に行くんだい?」

「一昨日封切りしたばかりのやつさ。満州の映画会社が作った作品だ」

「満州ってことは、つまり日本の作った映画じゃないか」

「そうだよ」風は平然と答えた。「君、文化は文化、戦争は戦争だよ。まあ中身がばかばかしいかどうかは見てから判断しても遅くないだろう? 食わず嫌いが一番いかんと、俺は思うね」

 まったく、小若が行きたがらないわけだ。若者の間では抗日がしきりに叫ばれているのに、どうして日本人の制作した映画を観に行かねばならないのか。といっても、北平の人々にとって映画はまたとない娯楽の一つだから、なんのかんの口で言っても、実際に観る中国人は多い。そう考えると、後ろ指をさされるような行為でも無い気がして、私は了承した。

 風が私によくしてくれるのは、小若との関係が大きかった。彼女は二年ほど前から頻繁に私の営む書店へ出入りしており、それで自然と親交を深めるようになった。彼女は私を「老師(せんせい)」と呼んで慕ってくれるほどだった。彼女が私の書店を気に入ったのは、取りそろえてある本が面白いからだと聞いたことがある。私は試しに近場の同業者の店を覗いてみたが、はたして私の店は確かに一風変わっていた。売れ筋をまったく置かず、特定の人間にしか興味を持たれないような本を、雑多に並べている。これは色んな種類の人間が入り乱れる上海の虹口においては、そこまで珍しくなかった。私は父のやり方をそのまま受け継ぎ、北平へ持ち込んだだけに過ぎない。売れ筋の本ばかりが置いてある他の書店に比べると、私の店は若い小若にとって宝の山みたいなもので、好奇心をくすぐられるらしかった。

 最初、風は私と娘が友人になったことを快く思ってはいなかったようだった。名家を自負する風にとって、貧乏書店の人間と娘が親しく接するのは気に入らなかったのだろう。初めて彼と会うことになった時、私は小若ほど読書好きで勉強熱心な娘の父親だから、さぞかし立派な人間なのだろうと思って終始平身低頭の有様だった。その態度が恐らく風には心地よかったのだろう――彼は自分を慕う人間に対して、とても寛大だった――、私のことを友人とみなすようになり、度々麻雀や酒の席に誘ってくれるのだった。

 風の愛国精神の薄弱さは近隣の人々の恨むところだったが、その一方で誰もが彼を羨んでいるのも事実だった。愛国精神があれば優雅な生活を送れるわけではない。風に近づいてうまい汁を吸おうとする人間も少なくはなかったのだ。風の賓客になったことで、周囲の人々は私を一目置くようになった。誠意のある人は、風と深く関わりすぎない方がいいと忠告もしてくれた。私自身それは重々理解しており、小若のことが無ければ風とはそこまで親しくならなかっただろう。国絡みの事情さえなければ、風ほどつき合っていて楽しい人間もいない。が、戦争があちこちで起こっている中、人々は嫌でも国の存亡と無縁ではいられないはずなのだ。私もそれはわかっていた。が、私のように祖国と故国で板挟みになっている人間にとって、こういう問題は考えるほどに袋小路へ追い詰められてしまう。私は自分の本心と向き合うのが嫌だった。だから風のような人間と娯楽へ逃げることを、自分に許してしまっていたのだ。

 映画館は混んでいた。日本軍に占領されていても、人々の心はそうそう変わるものではない。娯楽は娯楽、生活に必要なものなのだ。映画のタイトルは「上海之夜」、満州にある日本の映画会社によって制作されていた。内容は日本人の男と中国人の娘のラブロマンスだった。

 と、銀幕に現れた主演女優の姿を見た途端、私の脳裏を何かが掠めた。色めかしいスタイル、美しい双眸と顔立ち、どこかで見たことのある女性だった。

「風さん、あの子を知らないかい?」

「はは、俺の顔が広いのは確かだが、さすがに映画界の方にまで足は伸ばしちゃいないよ」

「あ! あの子だ!」

 唐突に私は思い出した。三年前、中南海の公園で「私は城壁に立ちます」と答えた、あの女学生だった。年をとって色気づき、化粧もしているものの間違いない。

 名前は……(リー)香蘭(シャンラン)

 私は白黒の銀幕の向こうで展開されている物語のことも忘れて、ぼうっとしてしまった。あの女学生が女優になり、しかも日本が作った映画に出ている。私は城壁の上に立ちます――その答えがこれだったのだろうか?

 映画の内容はラブロマンスが中心だったものの、日本人の男を慕う中国人の女という構図が、少なからず観客の気に障ったようだった。確かに、自国の女性が他国の男になびいているのを見るのは、気持ちがいいものではない。まして日本と中国は戦争をしているのだ。

 とはいえ、観客は女優・李香蘭の演技や美貌を絶賛した。上映の帰り道、彼女の歌う「蘇州(そしゅう)夜曲(やきょく)」を口ずさむ者もいたほどだ。

 風も満足したようで、得意げに私へ告げた

「どうだ、文化は文化、戦争は戦争。そこまで悪いもんじゃなかったさ。敵国にしては、日本は随分我々のことを高く扱ってくれているじゃないか。これは友好の印というものだよ。出来ることなら、次は我々中国人に惚れる日本人の女性を撮ってもらいたいもんだがね!」

 風の自宅に着くと、小若が迎えに出ていた。ほっそりしたシルエットに、物事を見透かすような黒い瞳と賢そうな顔立ち。私は小若が女学者に見えてならないのだった。

「父さん! まさか老師を連れて映画を見に行ったの?」

 両眉を鋭く立ている娘を見て、風は顔をしかめた。

「そんな目をするんじゃない。悪い映画じゃ無かったぞ。なあ?」

 話を振られて、私はぎこちなく笑った。

「まあ、細かいところに目を瞑ればね」

「老師までそんなこと言うなんて!」

「お前と違って、ちゃんと分別があるんだよ。わかったらもう家にお入り。夜も遅いんだから」

 風は娘の肩を掴んでその体を戸口へ回れ右させると、そのままぐいぐい押し出した。彼女は私を振り向いて、不満げに叫んだ。

「老師、明日お店におうかがいしますから、もっとちゃんとその映画のこと教えてください。あたし、納得出来ません!」

 私は黙って頷いた。風といると思わず安心してしまうが、やはりあの映画は中国人から見れば気分を害するものに違いない。その点はきちんと話しておこうと思った。小若が私を慕うのは、私が風とつるみながらも、決して彼の考え方や生き方に染まっていないからなのだ。小若はそのことを、私の芯がしっかりしているためだと思っているが、実際は違う。単に私が優柔不断で、自分の立場というものをこれと定められないだけだからだ。

 帰り道は、李香蘭のことばかりを思い出した。三年前のあの言葉と、銀幕の中の彼女……。

 こんな時代だ。自分で自分の生き方を選べる人間は少なくなっていくのだ。

 翌朝、小若が私の書店を訪ねてきた。以前貸し出した本――私は小若には特別に、店の売り物を貸し与えていた――をカウンターに置くと、彼女はまじまじと私を見つめてきた。

「老師、どうしてまたあんな映画を見たんです?」

「君がそんなに怒るとは思わなかったよ」

「怒っているんじゃなくて、理解出来ないんです」

「ある意味では、君の父さんが正しいよ。戦争と文化は別物さ。もちろん、日本人にとって都合のいい部分が多いことは否めない映画だったけれどね」

「あたし知ってます。あの映画は中国人のことを少しもわかっていないし、侮辱してます。女の人が、自分の頬をぶった相手に惚れるだなんて」

 確かに、と私も頷いた。小若は実際鑑賞しなかったものの、人づてに映画の内容は聞いたのだろう。

劇中の一幕で、日本人の男が李香蘭の頬を殴り、相手を諭そうとする。李香蘭がそれに感化され、恋心を抱く……という場面だ。

頬を打たれるのは中国人にとって最大級の侮辱だ。だが日本人にとっては、時として相手を殴るのが愛情の深さを示す行為の一つであることを私は知っていた。

 それから小若はいろいろと愚痴をこぼし、最後に「李香蘭って人は、中国人として大事なものを無くしてるわ」と告げ、それからぷっつり黙り込んだ。何度か視線をちらちら左右へ泳がせてから、彼女は酷く遠慮がちに尋ねた。

「あの……老師。老師は、中国を愛していますか?」

「もちろんだよ」

 反射的にそう答えたものの、私は途端に自分の言葉に対する自信を失った。

「あたし……あたしもです。だったら、国のために果たさなきゃならない責任っていうのが、あると思うんです」

「そうだね」

 彼女の瞳に期待の色が掠めた。彼女はこの瞳でものをいう人間なのだということを、私はよく知っていた。言葉よりも、ずっと深い重みがある。

「あたしの話、わかっていただけますか?」

「うん」

「それなら……それならあなたを信じて、一つお願いしたいことがあるんです」

 彼女の黒い瞳は、真っ直ぐに私を見据えていた。私はまずいと直感しながらも、促した。

「何かな?」

「ちょっと、預かって貰いたい物があるんです」

 小若は麻の手提げ袋から一冊の本を取り出して渡した。いや、本ではなかった。私は開いてすぐにわかった。本のちょうど真ん中の数十頁だけ紙の質が違う。巧妙に糊付けされたその頁は人々の名前や住んでいる場所、身体的な特徴などがびっしり書かれている。これは名簿だった。それも、危険な香りのする。

 小若は微かに俯き、それから申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい。いきなりのことで……。それ、友達から預かったんです。日本に対抗している、若い共産党八路軍の同志達の名簿です。これを見れば、誰がどこの人かすぐわかります。もし北平に敵がやってきた時、頼りになる人を捜したかったら、これを使えって渡されました」

 私はいきなり爆弾を渡された思いになって、すかさず尋ね返した。

「その友達は、今どうしてるの?」

「戦地へ行ったきりで、行方知れずなんです……」

 小若は私の動揺を感じ取ったか、はたまた不安になったのか、瞳に懇願を浮かべて身を乗り出した。

「老師、どうかお願いします。これはうちには置いておけないんです。父のことは、あなたもよくご存じでしょう。この名簿を見つけたら、きっと日本軍へ差し出してしまうに違いありません。あなたは父と仲がいいけれど、決して同類の人間じゃないって、信じています」

 彼女の切実な頼みを退けられるはずもない。それに中国は故国だ。しかし一方で、私には日本という祖国がある。いっそこの場で彼女にぶちまけてしまおうか。私は静かに暮らしたいだけで、こんな争いの種とは無縁でいたいのだと。どちらかに荷担すればどちらかを裏切ることになる。そんな真似は出来ないと。

 だが私には、この娘のひたむきな愛国心を無下にすることなど出来なかった。

「わかった。これは私が預かろう。本の山に隠しておけば、きっとわからないだろうから」

 小若はぱっと頭を下げた。

「老師……このご恩は忘れません。戦地にいる名簿の同志に代わって、お礼申し上げます。あなたは、私達中国人の誇りです。いつかきっと国土を取り戻したら、みんなが――」

「もう言わないでくれ。いいんだ。いいんだよ……」

 


三、1944年

 日本と中国の戦争は驚くほど長引いていた。日本は相変わらず世界を相手に戦い続けていたが、それもいつまで続くかわからなかった。中国はといえば、外部の敵はもとより内部の敵とも戦わねばならなかった。国民党と共産党、二つの政府は手を取るべき機会を失い、互いに内外の敵を相手にする羽目になっていた。

 北平の人々も疲弊しきっていた。物資はまわらなくなり、貧しい人々は一層貧しく、裕福な人々も生活を切り詰められていった。粗悪な食べ物を口にしたせいで、腹を下す人間が大勢現れ、道端で突然倒れたかと思うと、それきり立ち上がらないのだった。最初こそ近くの人々は助けの手を伸ばしたものの、今や誰も気にかけなくなる始末だ。

 さらに、このところは抗日の工作員が度々城内へ出入りするようになり、日本軍は彼らを探すのに躍起になっていた。工作員は自分達に協力してくれそうな人間を城内で探し、抗日のビラを密かに刷って城内にばらまくなどの行為を繰り返していた。時にはもっと直接的な手段で抵抗をすることすらあった。日本軍は彼らをあぶり出すべく、昼夜を問わず監視の目を強化している。

 このために、関係のない市民達までも否応なしに両者の争いに巻き込まれた。北平の外に何らかのコネクションを持っている者は日本軍から真っ先に疑われ、取り調べのために連れて行かれる。中には二度と帰ってこなくなる者もいた。

 しかし、日本軍の捜索も日を追うごとに強引で乱暴なものへと変じていった。私はいよいよ彼らが追いつめられ、ヒステリックになっていることを感じずにはいられなかった。世界的に見れば、日本の形勢は不利に傾き始めていたのだ。外部から伝わってくる噂で、誰もがそれに気がつき始めていた。しかし、いつ日本の負けが決定的なるのかは誰にもわからず、中国人達は依然として苦しい生活を強いられているのだった。

 いや、正確に言えば、北平にいる日本人もそうだ。戦争に負け始めている日本を見て、彼らも眠れない日が続いていた。いつか中国人の隣人達に襲われるかもしれない。かつてのように我が物顔で北平を歩く日本人は少なくなっていた。

 風が久しぶりに訪ねてきた。両頬が削げ落ち、すっかり痩せきっている。身につけていた高価なコートも、体つきには似合わなくなっていた。

 私は風を奥間へ通すと、簡素な茶菓子でもてなした。

「ここ何日か、出かけていたらしいね。何をしていたんです?」

 風はうんざりしたようにかぶりを振った。

「日本人ときたら! まったく話を聞いちゃくれんのだから。俺はただ、役に立てることはないかと言っただけなのに」

 私は彼がうまくいかないのも至極当然のように思われた。日本に取り入ろうとする風の試みは最初こそうまくいったようだが、戦争が長引き、今や傀儡政権の力も弱まった。風のような協力者が増えたところで、状況を挽回するあてにならないのだろう。

「俺にはいろいろと出来ることがあるんだ。北平の人々のためにも、日本人のためにもなる。なのに日本人は耳を貸さないで、最後はこっちへスパイの疑いをかけてくる始末だ。いやいや……別に彼らを悪く言うつもりじゃない。情勢だから仕方ないのさ、情勢が情勢だから……」

 そう言って無理矢理己を納得させると、風は片方の眉を上げて私を見た。

「あんたも痩せたなあ」

「ええ」

「あんたは、何かしようと思わんのかね。このままじゃ、俺達は干からびて死ぬ運命だよ」

「そうかもしれないですね」

 私は風が何か危ない話を持ちかけてくるのではないかと恐れ、それとなく話を流した。風のように優雅な男には、今の不自由な生活が我慢出来ないのだ。

「小若と奥さんは、あなたが出かけるのを心配しているんじゃないですか?」

 私は彼の話題を家族の方向に逸らした。私と違い、風には守るべきものがある。それを失うことを考えれば、危ない橋を渡ろうとは思うまい。案の定、風は口を閉じた。それから、ため息をついてがっくり肩を落とした。私はとっさに彼をなだめることも出来ず、助けを求めてラジオのスイッチを入れた。

 流れてきたのは、あの李香蘭が歌う「夜来(イエライ)(シャン)」だった。


那南風  吹来清凉

那夜鴬  啼声凄愴

月下的花児  都入夢

只有那 夜来香

吐露着 芬芳……


物寂しくも美しいメロディーと、彼女の澄んだ歌声は場の重い空気を癒してくれた。

 李香蘭といえば、私の中でまた彼女に対する見方が変わっていた。去年のことだったか、新聞で彼女のことが記事になり、私はそれを読んだのだ。それによれば、とある記者会見で若い中国人記者が、李香蘭にこう訪ねたという。

 ――あなたは中国人でありながら、何故日本人と一緒になって中国を侮辱するような映画に出ているのか? 中国人としての誇りを持っていないのか?

 対する李香蘭の答えは、真摯なものだった。

 ――私が若かったとはいえ、愚かなことでした。今後、二度と同じ轍は踏みません。お許しください……。

 記者団は彼女の潔い姿勢に心をうたれ、一斉に拍手したという。私は記事を読み終えた時、城壁に立つという李香蘭の台詞の意味がわかった気がした。彼女はやはり中国人だ。愛国の心をちゃんと持っている。城壁に立つというのは、我が身を盾に国を守るということだったのだ。

 なら私はどうだろうか。故国に対し、また祖国に対し、申し訳が立つのだろうか。いやそもそも、私は国のことを考えて生きてきたのだろうか。国のことなどこれっぽっちも考えていない風とつるんでいる時点で、立つ瀬などないではないか。

 風が思い出したように、ぽつりと呟いた。

「そういえば、李香蘭は満映(満州映画協会)をやめたって聞いたなあ。映画か……いっそ、残った手持ちの銭をなげうって映画でも撮ってみるか、ハハ……」

 弱々しい笑みと共に、風はそんな言葉を漏らした。

 夜来香の物寂しげな歌詞は、私の胸に時代の移り変わりを感じさせた。

 風の来訪から一週間ばかりが経った日のことだった。朝早くにノックの音で目が覚め、私は慌てて戸口に出た。

 そこに立っていたのは三人の日本軍兵士だった。いずれも軍刀と銃を携えている。彼らはねっとりした目つきで私を上から下まで見ると、開口一番に尋ねた。

風大中(ダージョン)とはどういう関係だ?」

 私はどきりとした。

「彼が何か?」

「あの男は工作員だ。違うか?」

「まさか」

「疑う余地はある。度々我が軍と接触をはかっている男だ。工作員のやり方は日に日に狡猾になっている。あの男の行動は十分疑うに値するものだ。それゆえ、身辺に工作員の知り合いがいる可能性を考えている」

「私は関係ありませんよ!」

 しかし彼らは問答無用とばかりに店へ踏み込み、工作員の証拠を探すべく中を荒らし始めた。本棚の中身を振り落とし、置いてある物は全てひっくり返し、徹底的に捜索した。

 私は急にあることを思い出していた。四年前に小若から渡された名簿が、本棚のどこかに眠っている。彼らは探し当てるだろうか? 私は気が気でなくなった。あれを見つけられたら言い逃れは出来ない。かといって、この場でそれを安全な場所へ隠すことも出来ない。冷や汗が流れ、息をするのも苦しくなった。肺が一気に収縮してしまったかのようだ。

 日本軍の兵士はまだ不十分だと判断したのか、私にきっぱりと告げた。

「来てもらおう」

 ――よかった。見つからなかった!

 その時、奥の方から別の兵士の声がした。

「隊長。名簿がありました!」

 若い兵士が持ってきたのは、紛れもなく本に偽装されたあの名簿だった。 


 暗い部屋の中で、私は取り調べを受けた。自分が何を言ったのか、よく覚えていなかった。ただ私は興奮し、恐怖の余りしゃべり続けていた。日本軍の陣中には、中国人工作員を閉じこめ、拷問するための牢獄があった。私は運悪く檻の中の光景をのぞき込み、気が気では無くなってしまったのだ。日本人でありながら、日本人のしたことが恐ろしくてならなかった。檻の中の形容に絶する世界は、私を恐怖のどん底に叩き込んだ。

 翌日、私は解放されていた。自分の店に戻った時、ふと目の端で日本軍に連れていかれる三人の人影をとらえた。

 風と彼の夫人、そして小若を。

 私はその時初めて、取り調べで自分が何を口にしたのかはっきり思い出した。

 ――私は彼らを売ったのだ!

 それも、あることないことない交ぜにして、ひたすら自分のために訴え続けていた。自分が日本人であり、祖国に対する二心など無いこと、本に偽装されてあの名簿を渡されたこと、風一家が私を日本人だと知って度々接触をはかってきたこと……。

 小若も私を見た。日本兵と肩を並べて立っている私の姿を。それだけで、全てを理解したらしかった。彼女の黒い瞳が絶望の色を浮かべ、そして次の瞬間には果てしない憎悪へと変じた。両腕を日本軍の兵士に抱えられた彼女は、軍用車に収容されるまでずっと憎々しげに私を睨み続けていた。

 ――あなたを信じていたのに、裏切り者!

 小若の瞳は紛れもなくそう告げていた。彼女の瞳は、どんな言葉よりも私の胸を突き刺した。もし彼女が生きて戻ってきたなら、私を決して無事に生かしてはおくまいと思った。

 風は車に乗せられるまでずっと、これは誤解だと喚き散らしていた。大半の漢奸と呼ばれる人間がそうであるように、彼は自分自身が悪いことをやっているとは夢にも思わないのだ。決定的な証拠が見つかった今、風は無事では済まないだろう。

 私の前に立っていた軍人は、口端を持ち上げて言った。

「あなたを疑って申し訳ありませんでした。しかし、今後は無用な争いを避けるように堂々と日本人を名乗った方がいい。そうすれば、こんな目には二度と合わないだろう。いや……この先は、それもわからんか」

 彼の笑みが苦いものに変じた。まるで祖国の行く末を予見したかのように。



四、1946年

 戦争は終わった。人々には、とりわけ敗戦国の日本人には癒せないほどの傷を残して。 

 私は失意のうちに日本へ帰ってきた。敗戦後、北平の日本軍駐屯地の兵舎に収容されて四カ月余りを過ごし、やがて帰国許可が降りると上海から日本へ出航する船に乗った。誰もが敗戦を悲しんだ。しかし無事に祖国へ帰れる喜びもあり、船の中のムードはそこまで陰鬱なものではなかった。敗戦国の人々の扱いについては様々な憶測が飛び交い、その多くがもっと酷い結末を予測していたからだ。

日本に戻るなり、私は東京に住んでいる遠縁の親戚を訪ね、そこで厄介になった。彼らも大勢の家族を失っていたため、血縁のある者に再会出来たのを喜ばしく思ったらしい。私を温かく歓迎してくれた。とはいえ、私のような者は幸運な方だったといえるだろう。帰国しても身寄りがなく、食い詰めている者は多かった。満州から戻ってきた人々などは、「日本で食えないからあっちに行ったんだろう。今更のこのこ戻ってきてどうするんだ」と陰口を叩かれていた。物資のまわりは悪く、北平にいた頃よりも酷い生活だった。それで大勢の日本人が祖国へ帰ってくるということ自体、歓迎されなかったようだ。おまけに占領されているという事実が、人々の心に圧迫感をもたらしていた。

だが私は、どうにでもなれという気分だった。むしろ微かな安堵すら覚えていたかもしれなかった。まったくもって都合のいい考え方だが、日本の敗戦は私が北平で犯した罪、故国に対する裏切りへの意識を薄れさせてくれたのだ。

 だがとある日のことだった。居候先ですることもなく、散歩に出ていた私は三日ほど前の新聞を道端で見つけて、拾い読みした。とんでもない記事が目に入り、全身に鳥肌が立った。

 李香蘭が、日本人だったというのだ!

 私は驚きの余り、自分の目玉が落ちるかと思った。あの李香蘭、城壁に立つと発言した彼女、国を侮辱する映画に出ていたことを真摯に謝った彼女、それを恥じて女優を引退していた彼女……それが日本人だったとは!

 記事によれば、満映を去って以来上海に住んでいた李香蘭は、日本が降伏した後、収容所に入れられて裁判を待つ身だったという。その裁判は中国の国民政府による、漢奸を罰するための裁判だった。戦時中に中国を裏切り、日本へ荷担した人間を裁くために行われたのだ。李香蘭は日本の製作した映画へ出演し、文化的に中国を侮辱したとして、銃殺刑に処されるはずだった。

 ところが彼女が日本人であることが証明され、中国人を裁くための裁判である今回の一件からは逃れ、帰国を許されることになったのだという。

 私も、李香蘭が日本人だという噂は多少ながら耳にしたことはあったが、本気で信じたことは無かった。彼女が中国人と中国を想う心は本物だった。私は何故だかそう確信していた。

 何より、彼女がこうして日本に戻ってこれたのは、中国人が彼女を許したという証ではないか。私は、彼女が裁かれなかったのは、単に彼女が日本人だったからだというわけではないように思われた。中国人は李香蘭の誠実さを知り、彼女を愛していた。彼女が真摯に己の罪を償うことが出来る人間だとわかっていたからだ。

 許す……ああ……だったら、私は誰に許しを乞えばいいのだろうか? 誰が裁いてくれるのだろうか?

 私は身を絞られるような思いだった。薄れていた罪の意識が、突然波のように戻ってきた。私は故国を裏切り、上海から逃げた私を受け入れてくれた北平の人々を裏切ったのだ。小若の黒い瞳に睨まれたのが、つい先ほどのことのようだった。

 新聞を握る手は震えて、額には玉粒の汗が浮かんだ。唇を噛みしめ、私は今すぐ何かしなければならないという衝動に駆られた。

 船に乗り、北平へ行こうか? 風は、小若は今も無事だろうか。私は彼らに謝罪しなければならないはずだ。

 いてもたってもいられなかった。私は暇を告げると、有り金をかき集めて中国行きの船を探すことにした。終戦からまだ僅か一年、中国から日本へと帰るべく、両国の間には船の行き来が続いていたのだ。

 私は、城壁の上に立ちます――。

 李香蘭のあの言葉の意味を、私は今度こそ本当に理解出来た気がした。彼女も故国と祖国の間で揺れ動き、苦しんだ人間だ。だからこそ、自然とあのような言葉が出てきたのだろう。城壁の上に立てば、両側からやってくる日本軍と中国軍の銃弾を真っ先に浴びることになる。故国の盾にも、祖国の盾にもなる。これ以上ないくらい、潔い人間の最後だ。

 横浜港にやってくると、大勢の人々の姿があった。やつれ果て、あるいは涙を流し、またあるいは喜びに溢れる顔があった。私がまたこの国に戻ってくる時は、今よりもましな顔になっているかもしれない。

 私は船の時間を確認した。

 不意に、背後から聞き覚えのある女の声がして、私はそっと振り向いた。

 ああ、と私は嘆息した。鋭い痛みが胸に走るのを感じたが、私にはそれがまたとない許しのように思われた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 私は、北京の城壁に立ちます。 少女の言葉の真意が、長い時間軸の中で解き明かされ、本当の胸を打つ言葉となりました。 高強や小若のような若者はたくさんいたと思います。それに風大中のような人物も…
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