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スコレイオ  作者: 地野
1/3

カイロス・クローステール

幼い子どもは腐臭に溢れ乾ききった地に足を踏みしめ真剣な眼差しで吠えた「居場所を作りたいんです。」

1

なんとなくやる気がおきない。そう思った時には始業のベルがなっているにも関わらず人気の少なくなった廊下を堂々と歩き、気がつけば最近知り合った変わり者のもとへ足を向けていた。

いつもならこうして意図的に会うことは難しいが今日は違う。

先日、生徒が暴発させた魔法で出来た壁や床の穴は真っ白な青年の唱える詠唱によって瞬く間に元の姿に戻ってゆく。次に半壊になった机、椅子、役目を果たせていないであろう窓辺に飾られた空の花瓶。青年の立つ教室内はさっきまでの惨状が嘘だったかのように至極見慣れた風景になっていた。


「こんにちはクローステール君。今日もサボりかい?」

「こんにちはルディ、いつも思うけどよくそんな大掛かりな魔法使えるな。魔力切れで倒れるって心配はないのか?」

「君はいつもその心配だね。初めて会った時にも言ったけど、僕は魔力の制御が得意なのさ。それに大掛かりに見えるかもしれないけれど慣れればそんな魔力を使う程の芸でもない」


そんなことより授業はちゃんと受けなさいと言う青年、ルディは直した壁やロッカーの中を不備な点はないか確認し始める。その注意が本心からではなく学園に従じる者としての建前だと知っているカイロス・クローステールは机に掘られた落書きに指先を添えつつ今日はどんな事を話そうかと思案していた。昼食前の基礎体力育成でしごかれたおかげで午後の幾何学分析はちっとも内容が頭に入らなかった。今は星座占術の授業を受けているはずなのだが暗い教室で永遠と呪文のような話を聞くのは耐えられない。それにあの教授はヒステリック気味でやたらと耳元で喚き散らすから苦手だ。この学園の教師陣は名門校とだけあって素晴らしい功績を称された方々が大勢揃っている。しかしそのせいかひとくせもふたくせもあるややこしい性格の者も多い。

そんな教授たちの愚痴でも言ってやろうと考えてやめる。

点検を終えこちらの様子を伺っているルディを見下ろす。幽霊のように青白い肌、肩につかない程度に切りそろえられた真っ白な髪。瞳は赤く、美しくもどこか憂心を抱かせる。


青年の心臓は動いていない。


何百年と歴史を持つロジアース学園には多くの謎がある。七つごときではない。夜中に鳴り響くピアノの音色は人を黄泉の国へ誘う。肖像画のハイネ卿が隠している通路の先は魂を食べる魔物が住んでいる。プレギシャ湖には美麗なる人魚が出る。しかしその歌声はこの世のものとは思えぬ程で聞けばたちまち耳としての機能を失う。実際被害に遭った生徒を見たことも聞いた事もないが皆一様にその噂を冗談半分本気半分、伝統的に語り継がれてきた。

生きた幽霊。それがルディの持つ噂であり謎だった。




確かに次の授業は東棟に移動しなければいけなかったはず。高等部に編入生という形で入学したカイロスはこの無駄に広く感じる学内で道に迷った。この学園は常に姿形を変える。一度道を曲がって後ろを見れば先程歩いてた道は変わっている。階段は上っているはずなのに下っている。しかし進む者が指標となるものを想えば自ずとその道は現れる。

途中まで一緒にいた友人は角を曲がった途端に消えていて、戻りたくても道は無く周囲に生徒も教師も人っ子一人いない。生気を感じられない廊下は薄暗くこれ以上進むのには一人では些か心許ない。だが進まなければ道は現れえてくれない。

「東棟、工房、錬金術、東棟、工房、錬金術」

目的地をイメージしながら足を早める。懐中時計を見れば始業までまだ6分ある。最悪間に会わなくても構わない。ただこの廊下に長く居続けるのは得策ではないと本能で感じ取る。どんなに前に進んでも白い光に包まれるばかりで一向に先が見えず、引き返そうにも振り返れば真っ暗で地面は底の見えない奈落になっていた。焦りのせいで歩幅は大きく、早歩きから小走りに、小走りから全力の走りに。知れず呼吸が荒くなる。滑り、もつれそうになる足を無理矢理前へ前へと押し出す。


「おや、こんな大きな迷子を見つけるのはいつぶりかなぁ。この道に高等部の子が迷うのは初めてだ」

真っ暗で誰もいなかったはずの後ろから場違いに思える程間延びした声がした。振り返れば初等部の制服に身を包んだ子どもを抱えた真っ白な青年がゆっくりと落ち着きはらった様子で歩いてくる。青年の足下に奈落はなく、少し苔の生えた石畳でカイロス自身が踏みしめる廊下と同じ。日が高く昇る時刻では用無しの壁に掛かった松明が視界に入る。人に会えた安堵と迫る暗闇から解放されたことで塞き止められていた汗が毛穴という毛穴から溢れ出る。

「ぁ…」

全速力で走っていたせいで肺も心臓も痛い。口は乾ききって脱水症状でも起こしているんじゃないかと頭の隅の冷めた自分が他人事のように分析している。


「君、東棟の工房に行きたいんだろう?着いておいで」

そう言って青年はくるりと背を向けて来た道を戻り始める。混乱と恐怖と安堵が綯い交ぜになり正常な思考を放棄したカイロスはまた一人になるのが嫌で大人しく青年の後に続いた。


「それにしても随分奥まで進んだね。大抵の子は足がすくんで泣いてるからすぐに回収してあげられるんだけど、なかなか会えないからまさかもう食べられちゃったんじゃないかと不安になっちゃったよ」

最後に「戻るのに結構歩くよと」言ったきり青年が話しかけてくることはなかった。カイロスはそんな青年の背中を黙って見つめる。この学園の制服ではない白いロングマントに身を包み、背丈は170あるかどうかといったところか。教師にしては若すぎる、年齢は自分とそう変わりない見た目をしている。

コツコツと石畳を踏む足音は己のものだけ。青年はまるで宙を歩いているように何の音もしない、まるで歩いているのは自分一人だけのように感じる。


「申し訳ないけど案内出来るのはここまでね。そのまま工房のことを考えながら廊下の右側を歩きなさい。3つ目の扉が工房と繋がってる、いいかい、引くんじゃなくて押して開くんだ」

そう言って青年は初等部生を抱えたまま蔦の生い茂る壁に向かって迷いなく歩き消えてしまった。


「工房、工房、工房、工房」

言われた通りに廊下の右側、3つ目の扉の前に立つ。古ぼけた取っ手の無い木製の扉。押して開けば目的地の工房だった。


「カイロス!?君どこに居たんだ!?気付いたら姿が消えて慌てて教授を呼ぼうとしたぞ!おい、汗すごいぞ大丈夫か?」

「え、あぁ悪い。迷ったみたいで?」

迷子になる前、一緒に移動していた友人ペネシア・ヨハンは血相を変えて詰め寄ってくる。懐中時計を見れば始業まであと5分。随分長いことあの廊下で走って歩いていたと感じたがまだ1分しか経っていないようだった。この時計が狂うことなんて初めてかもしれない。

「なあ、今何時何分だ?」

「今?今は10時20分だ」

懐中時計も10時20分を指している。迷子になっていた時間はもっとあったように思う。

真後ろの扉が勢い良く開けられる。赤茶色い髭を臍部分まで垂らした100センチ程度の背丈の老爺がローブを廊下に擦りながら立っていた。


「ん?クローステール君にヨハン君、扉の前をそうも塞ぐように立たれては非常に迷惑なんだがね?」

「これはサジェ教授、申し訳ありません。クローステール君の体調が思わしくないようで」

「そうかい?不調なら医務室に行きなさい。授業を中断なんて私はしないからね」

「いえ教授、ご心配には及びません。」

そうかいと興味なさげに答えるサジェ教授は身体に合っていないローブの裾を引きずって教卓まで進んでいく。入口を見遣れば教授が開けたきりになっている重厚な鉄製で出来た扉が廊下側に向けて開いていた。


そうこうしているうちに始業のベルが鳴った。サジェ教授は甲高い鼻の詰まった声を張って黒板に記した課題内容を復唱する。

「本日の課題は赤い宝石を作り出すこと。条件は事前に言い渡していた材料のうち最低2つを必ずとり入れること。毒性のあるものもあるので気を付けなさい。その他の工程は各自に任せます。提出期限は再来週までなのでゆっくり確実に、質の良い物を期待していますよ。ああそうだ、不正行為、特に魔法の使用は問答無用で落単させるのでくれぐれも忘れないように」


各自が思い思いの材料を鍋に入れて課題に取り組む。既にいくつかの方式を考えてきて順序よく課題に取り組む者もいれば、材料を選ぶ時点で迷っている生徒もいる。

「カイロス、どれ選んだ?」

「ヨハン、取り敢えずモスアゲートとエハコ草を使うつもりだ。お前は?」

「俺はジプサムとイチョウに啼根を加えるつもりだ。正直この石に真っ赤なペンキでも塗ればいいと思うんだけど」

「ヨハンは錬金術苦手だもんなぁ」

そう言いつつ鍋の中に他の様々な鉱石や薬草、薬液を入れていく。宝石を作り出すだけならまだしも指定色を作り出すには骨が折れそうだ。


「それでは、本日はここまで。今作成中の鍋は保存するなら私の元に持ってきなさい。試験管を渡します。それとリーゼッタくん?君は来週までには鍋を綺麗にしておきなさい。無理なら新しい鍋を用意すること。また爆発させたくはないだろう?」

揶揄する声で満ちる工房に終業のベルが響く。




昼食を取りながら爆発のせいで眉毛と前髪を焦がした友人を励ます。

「モルガン、元気出せよ。誰だって失敗くらいあるさ」

「ありがとうカイロス君…まさか鍋の底にエルフの鱗粉が残ってたなんて」

「まあそんな気落ちすんなって、モルガンは妖精族なんだしエルフが寄ってきちゃうのもしょうがねーよ。あ、そんなことよりカイロス、君さっき具合悪そうだったけどほんとに大丈夫か?」

サンドイッチを頬張りつつ「ずっとぼーっとしてただろ」と指摘された。モルガンはせめて前髪を整えて来るとカレーをかき込んで食堂を出ていってしまう。

上手くフォークに巻けず啜るようにしてトマトパスタを食べながら答える。

「授業前、俺が消えたって言ってただろ?あの時迷子になってたみたいで真っ白な人?に道案内してもらってたんだ」

そういや、時間も狂ってたみたいだしあの空間について噂好きのヨハンに聞こうと顔を上げればヨハンは齧ったサンドイッチを含んだまま口を半開きにしてカイロスを凝視していた。

「行儀悪いぞ」と他人事ではないことを呟きつつヨハンの口を閉じさせる。

パスタをまた啜ればサンドイッチを飲み込んだらしいヨハンが掴みかかってきた。

「白い幽霊に会ったのか!?呪いは!?何もされてないだろうな!?」

「んぐっ、ヨハン落ち着いてくれ。俺はまだ口の中にパスタが…」

「外傷はないようだけどひとまず医務室に…いやまず誰か先生に相談しに行くべき?ああ、あの時もっと話を聞いておけば良かった」

「ヨハン!落ち着けって!呪いってなんのことだよ。道を教えてもらっただけなんだから怪我なんてないし幽霊?あの人幽霊なのか?」


奇妙な体験だったがこの学園では日常茶飯事のようなことだと思っていた為に友人の尋常ではない焦り具合にこちらまで不安が募る。あの青年から敵意は感じられなかったが知らぬ間に危険事に足を踏み入れてしまっただろうか。


「君たち、食事くらい静かに摂れないのかい?先程の珍妙な前髪の彼もそうだが他の生徒も食事中なのだよ、もう少し周囲に気を払ってもいいんじゃないかい?」

トレーにふわふわのオムライスを乗せ、フンとこちらに向かって鼻で馬鹿にしたような笑いをする青年、エリカ・セグレートがカイロス達を見下ろすように立っていた。


「おやおや、エリカくん?態々ご忠告感謝するよ。相変わらず大好きなオムライスかい?よくもそう毎日同じものばかりで飽きないね。苦手なお野菜も食べなきゃいつまでも小さいままだよ?」

「いいやペネシア、皆が思ったことを代弁したまでさ。それに僕は小さくない。今年の身体測定は去年より6ミリ伸びていたからね」

「はっそうかい、君の成長歴はいつだって可愛らしいものだね。そんなことよりファーストネームで呼ばないでくれるかい?他ならまだしも君に呼ばれるなんて反吐が出るね」

「それはこちらのセリフでもあるね」


この2人は顔を合わせればいつも口喧嘩している。カイロスは口より手が先に出てしまうタチなので下手に話を拗らせないように黙々とパスタを食べ進める。

「カイロス・クローステール!君はパスタの食べ方もろくに分からないなら食さないことを勧めるよ。とても見苦しい、まるで思考を捨てたウォグジュだ。」

「エリカ!!僕の友人を侮辱するなら許さないぞ!!」

ヨハンはレッグホルスターから杖を抜きエリカに突き付ける。

「侮辱だなんてとんでもない、僕は事実を話しているだけさ」

エリカはそう言うだけで杖を構える様子はない。この後の展開が予想出来ているからだ。


「ヨハン、いいんだ。セグレートの言ってることも違うとは言いきれないしな。悪い、モルガンの前髪が心配だし先行くな」

食べ終わったトレーを持って席を立つ。この2人は声が少しばかり大きいし揃うと自分たちで自覚しているより良くも悪くも人目を引く。トラブルの原因がカイロスであったとしても公衆の面前に晒されるのはごめんだ。


「ウォグジュ、か」

楽園から通報された半端者。野蛮で知能を棄て泥水を啜り生きる化物。


人間のように自由に動かせる手はない。簡単に誰かを傷付けてしまう鋭い爪、畏怖を与える尖った牙、獲物を逃がさない為の目。およそ人間とは言い難い容姿をした生き物。人間とは違い強い身体があり力を持ち血が流れている。人間は彼等を恐れ、次第に忌み嫌いうようになり己達とは違う生き物と軽蔑の意を込め、ウォグジュと呼んだ。


時には娯楽として狩られ、時には重労働力を課す奴隷に、その血肉を食べれば不老不死や精力剤としての効果が出るなんて謳われ老若男女問わず尊厳なんてものはない、骨すら残らないほど搾取された。

何千何百年と長い月日を重ねてもウォグジュへの扱いが、生活が豊かになったとは言い難い。



中庭に出れば蛇口を捻って水を溢れさせるトキネが見えた。良く晴れた青空の下、暖かな春の陽気を思わせる陽射しはトキネのブロンドヘアに降り注ぎ、天使の輪を彷彿とさせた。


「モルガン、水が勿体ないぞ」

「あ、待って!」

蛇口を閉めようとすれば慌ててその腕を抱き込むように掴まれる。

「水が欲しいって言われたんだ」

水が溜まった鍋を見ても誰も何もない。モルガンの前髪はまだ焦げた跡が残っていて変色し少し焦げ臭い。

「何人いるんだ?」

「1羽だけ」

「そうか、でももう少し水の量を減らせないか?」

「…うん、そうだね」

それでもモルガンは蛇口に手をかけようとしない。腕に添えた両手はもう力が篭っていない。最大まで捻られた蛇口は1本の水流だけでなく端から小さな飛沫を上げている。

その両手を振りほどかずそのまま蛇口に手をかける。ゆっくり少しずつ流れる水を減らしていく。モルガンは鍋から目を離さない。太い水流は細く次第に時折雫が落ちるだけになる。


「まだ水欲しいって言ってるか?」

「ううん、もう要らないみたい」


止めた蛇口をまた捻って水を出す。次は出しすぎないように、手を濡らしてモルガンの前髪に触れる。艶やかなはずのそれはちりじりで随分手触りが悪くなってしまっている。

「モルガン、これはもう切らなきゃどうにもなりそうにないな」

手の水はモルガンの髪、額、顎に筋を作り、伝って流れる。

「うん、やっぱりそうだよねぇ」


溢れる程だった鍋の中の水は空になっていた。



放課後の校舎内は喧騒から離れていてそこに立つ自分の存在が霞んで世界から切り取られた心地がする。中庭には誰もいない。広いグラウンドにはいくつかの運動部が塊になって切磋琢磨し遠くで野太い掛け声が響き渡る。何処からかぴーとかぼーとか幾つもの楽器が不揃いに音を奏でる。

どこの部にも所属していないカイロスはしかし寮に戻る気にもならず教室の窓から外を眺める。ヨハンとは食堂の一件以降ろくに話せていない。そういえば迷子になった時に助けてくれた青年は誰だろうか。ヨハンが幽霊とか呪いとか言ってたような、だとしたら不味いのでは?呪術に詳しい先生にでも相談した方がいいのだろうか。

青かった空は朱色に染まり燃費の悪い胃袋が訴えるように叫ぶ。夕飯前だが購買で何か溜められる物でも買おうか。でもその前に今週提出の薬草学のレポートに必要な資料を借りに行かなければいけない。

思考があっちそっちに散らばった結果、空腹には勝てないと購買目指して廊下に出る。


「あ、これはまたやった感じか?」

恐らく、多分、いやこれは確定だろう。迷った。購買への道を思って出たのに、いったい何時から迷子になったのだろうか。廊下を歩いている限り景色は変わっているようで1つ目の角を右に曲がれば中庭が見える3階の廊下。次の角を左に曲がれば不協和音が近づく。次も左、グラウンドが見える。次は真っ直ぐ、気付けばそこは南棟だ。食堂への長い渡り廊下が見える。戻って右に進めば植物園のドームが見える。

音も聞こえる、人も見える、のに近くにその気配はどこか遠く感じる。購買がダメなら図書館に行きたいのに、それもダメならせめて寮に戻りたい。いっそのこと窓から飛び降りればいいのだがさっきからループしている階は3階から上の階ばかり、おまけに真下は石像や、木々が無造作に生い茂り無事に着地するのは難しそうだ。浮遊魔法が使えれば話は別だが生憎カイロスは浮遊魔法は不得手で未だ初等部生に混じって授業を受ける程だ。歩くことに疲れ適当な教室の扉を開ける。確かあの青年が教えてくれた扉も不思議と工房と繋がっていた、この扉を開ければ自分の部屋だなんて都合のいいことは起きないだろうか。一抹の期待を込めて錆びてざらつく取っ手を引いた。


「おや、誰かと思えばカイロスじゃないか!見学かい?部長である私は何も聞かされちゃいないが万年部員不足の我が科学部はいつだって探究心溢れる人なら大歓迎さ!!!」


カイロスは今日一で面倒だと感じた。扉を開いたそこは空き教室でも購買でも図書館でも、ましてや自分の部屋でもない科学実験室だった。強烈な薬品物の匂いは鼻だけでなく目をも刺激し頭痛や目眩を催す。涙目になりつつ直ぐに引き返そうとすれば逃がすまいとがっしり肩を組まれる。180以上あるカイロスをいとも容易く捕まえそのままずるずると部屋に連れ込み椅子に座らせる。

「見学に来たのにゴーグルも実験服ましてやマスクも忘れて来てしまうなんておっちょこちょいだね!!ああ、気にしなくて構わないさ私の予備の物をお貸ししよう。」

「いやあの、違うんです」

「カイロスはとても鼻が利くからね、この教室の匂いはきついだろう。今換気をしている所だけど如何せんこの教室は風通しが悪いからねぇ。私もいつも臭いと同室者に怒られてね。慣れてしまうとどうもこの匂いの酷さに麻痺してしまって」

「いやカノン先輩、見学じゃな」

「あ!!マスクは昨日焼けてしまったんだった!!すまないがハンカチで代用して頂いても?」

「いえ、はい…」

そう言って焦げ跡や薬液のせいで酷く変色した元は白かった筈の実験服と若干へこみのあるゴーグルを手渡された。

ファンキーな髪型に大きな口、2メートルある巨体に見合った大きく長い手足、力が強く押しも強い。彼の名はビニャー・カノン。カイロスの2つ上の学年で科学部の現部長、巨人族の末裔でありカイロスが学園一苦手とする先輩だ。


「だけど残念、今日の実験はもう終わってしまってね、見ての通り道具も片付けたし他の部員も帰ってしまったんだよね」

向かいの椅子に腰掛けわざとらしく肩を竦めて見せるカノン。

「え、じゃあ先輩ももう帰るっすよね。自分ももう寮に戻ります、お邪魔しました」

そう言って実験服諸々を机に置き早々に立ち去ろうとすればすかさず肩に手を置かれる。

「まあまあ、そんなに急がなくてもいいじゃないかぁ。そうだ、珈琲なんていかが?今日来た部員が最近お菓子作りにハマっていてね、今日も食べきれないほどのおすそ分けを頂いてしまったんだよ。紅茶は先日切らしてしまってね、すまない」

カイロスを再び椅子に座らせカノンはフラスコで湯を2人分沸かせ始める。

「マフィンなんだけどね、究極の甘さ加減を追求してるらしくて色んなバリエーションがあって面白いよ。私としてはサンプル8が一番美味しかったかな、なかなか刺激のある味だったよ。」

綺麗に焼けたマフィンはそれに似合う可愛らしい受け皿ではなく番号が振られた銀のトレーに大量に盛られている。大小不揃いのマグカップ2つに熱い湯気と珈琲特有の芳ばしい香りがたつ。

涙を滲ませるほどの悪臭は食欲を誘う香りで上書きされる。意思に反して腹の虫は反応してしまってぐうううと鳴る。それにカノンはにっこりと笑みを浮かべる。

「よし、頂こうか!是非感想を聞かせてくれ」

マフィンはあんたが作ったんじゃないだろうと思いつつ口をつける。瞬間目を見開き、ぶわりと全身の毛が逆立ち思わず叫んだ。

「あっっっっっま!!!!!!!」

有り得ない!甘すぎる!これじゃマフィンというより砂糖の塊だ!!慌てて手渡された珈琲を煽る。

「あっっっっっっづ!!!!!!」

激甘マフィンで失念していた。アッツアツの珈琲は口内と喉を焼くように流れて胃に落ちる感覚がする。舌を空気に触れさせるとじんじんヒリヒリしてさっきとは違う意味で涙目になる。

「ふふふふ、まるでコントしてるようだね。いや、すまない、そんなに睨まないで。はいお水」

カノンを疑わしげに睨みつつ水を受け取り舌だけを伸ばして水が正常か確かめる。当然と言えばそうだが無味無臭正しく水だ。分かれば行動は早く水を火傷した舌に馴染ませるように口に含む。ぬるいが火傷したばかりには丁度いい温度だ。

「いやまさかサンプル4を最初に引き当てるなんてね、ふふ、んんっ、そのー笑ったりして申し訳ない。これ火冷薬、明日には治るはずだから」


まだ若干ニヤついているカノンと薬を交互に見遣る。「火傷は実験時によくするから薬を常備してるんだ。心配しなくても医務室から頂いている物だから危険はないよ」

警戒心剥き出しのカイロスの様子にカノンは流石に申し訳なさそうに眉を下げて薬を机上に置く。

「…薬、いただきます。ありがとうございます。じゃ、俺ほんとにそろそろ寮に戻ります」

薬をポッケに入れて早口に礼を告げ今度こそさっさとここから立ち去ろう。そう思うのにまたカノンはカイロスを呼び止める。


「あ、待って!耳!!と、それからおそらく尻尾も…その、今の衝撃で?出てしまったようだ」

ばっと振り返ればアンティークな手鏡をこちらに向けるカノン、そして鏡に映るカイロス。

「あ!?」

人の耳じゃない白金の髪と同じ色のフサフサした耳が驚いたようにピンと立っている。

「げっ」

体を捩って下半身を見ればこれまたフサフサした白金の尻尾が毛を逆立たせている。

「えっと、本当に申し訳ない。私ので良ければローブをお貸しするよ」

口だけは律儀に謝罪するカノンは目を輝かせてカイロスの尻尾を凝視していた。



カイロス・クローステールは狼の獣人である。


前書きとはなんですか…

これから書けるようになればいいなと思ってます…




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