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2. 熊のミティテル

 よく晴れた青い空のしたを、羊の王とミティテルはゆっくり歩いていきました。

 時おり立ちどまっては、新鮮な草をつまみました。


 暮らしていた丘をくだりきって、あたらしい丘へ入ろうとしたとき、羊の王はミティテルにこう教えました。

「よいか、丘をこえるときには、だれかいないかよく確かめるのだぞ。ほかの群れの丘に勝手に立ち入ったり、ましてやそこの草を食べたりするのは、とんでもなく無礼なふるまいなのだからな」

 ミティテルは伸びあがり、まわりに羊がいないかたしかめました。

 緑の丘はひろびろと静かで、丈のながい草が風にゆれるばかりでした。


 日がかたむいてあたり一面がだいだい色に染まると、羊の王はおごそかにならわしの言葉を唱えました。群れをはなれても、ならわしの言葉はすっかり習慣づいていたのです。

「頭に角を。胸に誇りを。この毛や肉は与えるために。われら羊の喜びのために」

 ミティテルはそのあいだずっと黙りこくっていました。

 羊の王はまばたきをしました。

「そうか、おまえには角も、豊かな羊毛もないのだな」

 ミティテルは返事をしませんでした。

「すまなかった、ミティテル。おまえはおまえの言葉を唱えるがよい」


 羊の王とミティテルはいくつもの丘をのぼってはくだりました。

 頭のうえを、鳥が鳴きながら黒く飛んでいきました。

「ミティテル。もしかしたらおまえは、あのように空を飛ぶ暮らしがよいのかもしれぬな」

 羊の王は空を見あげて言いました。

 ミティテルはとんでみました。すぐにどすん、と地面につきました。

「ううん、王さま。僕は空では暮らせないみたい」


 とある丘をくだったとき、羊の王とミティテルの目のまえに、見慣れないものがあらわれました。

 灰色のたいらな石が、左から右まで、視界いっぱいに細長く広がっているのです。

 石は硬く、そのうえ跳びあがるほどに熱いので、羊の王とミティテルは土や草の地面だけをとおることにしました。


 歩いても歩いても、山はちっとも近づきません。

 ミティテルの足はへとへとです。

「ねえ、王さま。あとどれくらいでブカレストに着くの?」

「そうあせるでない。ほれ、森がもう近いぞ」

 羊の王は鼻先で、行く手の丘のうえを示しました。つられてミティテルも顔をあげました。

 育った木々は丘をさらに高く見せ、生い茂る葉っぱは夏の太陽をぞんぶんに浴びて黒びかりしていました。


 森の入り口には、一匹の犬が眠っていました。

 のんきにゆったりとふとっていて、牧羊犬には見えません。

 木々の合間をぬってひんやりした風が吹いてきました。

「近くで見ると、ずいぶんと暗いものだな」

 羊の王は犬を起こさないように、ささやき声でミティテルに話しかけました。ミティテルはうなずきました。

 羊の王は足を進めようとしません。ミティテルはじっと待ちました。

「……行こう、ミティテル。なに、怖いことなどないはずだ」

 そうつぶやいて、羊の王はようやく足を踏みだしました。

「はい、王さま」

 ミティテルはこたえてついていきました。


「ほれ、怖くなどないだろう。かえって日陰が心地よいくらいだ」

 うっそうとした森のなかで羊の王は言いました。

 ほかの生きものの気配も、鳥の声もありません。頭のうえの葉が日光をさえぎりざわざわいうばかりです。

 枝を踏みしだくと、するどく音が響きました。


 奥へと進むにつれて、羊の王とミティテルはことさらにことば少なになりました。

 見渡せば、ねじれた木、ななめに育った木、絡みあった木、ぐにゃりと曲がった木がそこかしこに生えています。

 羊の王はミティテルをふりかえって言いました。

「どうやら、この森ははやく抜けてしまったほうがよさそうだ」

 羊の王とミティテルは足をはやめました。けれども、森を抜けないうちに日が暮れてしまいました。

 ミティテルは太い幹のかげに寝床をつくりました。羊の王は耳を小刻みにうごかしてあたりの様子をさぐっていました。

 ミティテルの口から、 おおきなあくびが出ました。

「さきに寝なさい、ミティテル」

「はい、王さま。おやすみなさい」


 真夜中に、ミティテルは目を覚ましました。

 遠くから鳴き声が聞こえます。犬の遠吠えにも似ていますが、もっと高くからみつくような音です。

 森の反対側から、おなじような声がこたえました。

 ミティテルはむっくり起きあがって耳をすませました。

「ミティテル」

 羊の王のひそめた声です。

「王さま、あれはなんの声?」

「わからぬ。静かにして、止むのを待とう」

 鳴き声はおおきくなり、ちいさくなり、木立に響きました。

 ミティテルの耳は足音をとらえました。ミティテルよりも、羊たちよりも軽い生きものでした。

「おそらく、あれの鳴き声だ」

 羊の王も足音を聞きつけていました。

「ちいさな生きもののようだ。心配はいらぬだろう」

 ミティテルは、羊の王が息をつくのを聞きました。

 声はだんだんと遠ざかっていきます。

 ミティテルはまた眠りこみました。


 つぎの晩も、そのつぎの晩も、その生きものは鳴き交わしていました。

 ミティテルが音に目を覚ますと、羊の王はかならずすぐに気がついて、ミティテルを安心させることばをひとこと、ふたことかけるのでした。

 ミティテルはうとうとしながらたずねました。

「ねえ、王さま。王さまはずっと起きているの?」

「おまえに比べると、わしはあまり眠らなくてもへいきなようだ。おまえは気にせずに休むがよい」

 その答えを聞き終わるか聞き終わらないかのうちに、ミティテルは寝息を立てていました。


 あくる日に、羊の王とミティテルは開けた場所にでました。

 森を抜けたのではありません。ひと目で見通せるくらいのひろさだけ、木々が生えないまるい広場になっていたのです。

「やれやれ、すこし落ちつけるところに出た」

 羊の王は丘にいたときのように草を食み、それから座りこんでひなたぼっこをしました。

 ミティテルはしばらく歩きまわり、茂みに紫色のちいさな実がなっているのを見つけました。

 口に入れてみるとぷちりと甘くはじけます。ミティテルは次から次へとさがして食べました。

 満足してふと気がつくと、羊の王がミティテルを見ていました。ミティテルは決まりわるくうつむきました。

「ごめんなさい、王さま。お行儀の悪いことをして」

「気にするでない」

 羊の王はそう言って、また一口草をかじりとりました。


 日が暮れると、まるい空に星がまたたきました。星を見るのは久しぶりなことでした。

 羊の王とミティテルはその広場で眠りました。高い鳴き声も気にならないほど深く眠りました。

 ミティテルはだれかがおなかの毛皮にもぐりこんだり、耳にささやきかけたりするのを感じたように思いました。

 夜が明けて目覚めたミティテルに、羊の王はききました。

「ゆうべ、わしの毛にさわっていたのはおまえかい、ミティテル?」

「ううん。……でもぼく、夢のなかでだれかがしゃべっていたような気がする」

 羊の王は「ふしぎなこともあるものだ」と首をふりました。そしておなかを満たしてから、広場を出ました。


 また幾日か歩きつづけ、森を出ました。

 一気に空と景色がひろがりました。

 丘があり、その先には平原がつづき、群れを出たときに見ていた山はそのままの高さでそびえていました。

 ミティテルは足から力が抜けて、お尻をつけて座りました。

「王さま、あの山までがあんなに遠いなら、ブカレストまではどれくらいかかるの?」

「ミティテル。歩いていけば、いつかはきっと着くはずだ」

 風が吹きました。夏の終わりの、しっとりと毛先をしめらせるような風でした。

「冬までにブカレストへ行きたいものだ」

 羊の王は土を踏みしめて丘をくだりだしました。ミティテルも重い足を引きずりました。


 日に日に昼はみじかくなっていきました。

 しなやかだった草はだんだんと色をくすませて、羊の王とミティテルの足跡をのこします。

 あるときにのぼった丘は、暮らしていた丘にそっくりでした。

 丘のてっぺんで羊の王は高く育ってゆれる草をながめました。

「冬の蓄えはじゅうぶんにできているだろうか」

「……ごめんなさい、王さま。ぼくのせいで、群れをはなれることになってしまって」

「謝ることはない」

 羊の王ははるかに目をやったまま答えました。

「おまえのせいであることなど、何ひとつないのだから」


 羊の王とミティテルは、一歩一歩山へ近づきました。

 かわいて固くなった草をよく噛んでは飲みこみました。

 冷えこむ夜には身を寄せあって眠りました。

 ようやく山のふもとへたどり着いたとき、木の葉はすっかり黄色や赤に色を変えていました。


 山道はけわしく、一匹ずつとおるのがやっとのすき間や、うまく蹄を引っかけて登らないといけない岩場もありました。

 羊の王はまだ緑色の草がのこっているのを見つけては摘んで食べました。

 ミティテルは地面に落ちた茶色い木の実や、手の届く枝になる果実や、木の幹から浸みだす樹液を食べました。それはなんだか、すばらしくおいしいものでした。


 登って、登って、すこし下ると、川が行く手をはばみました。

 流れにさからって魚たちが泳いでいました。

「ミティテル。もしかしたらおまえは、このように水の中の暮らしがよいのかもしれぬな」

 ミティテルはざぶんと顔を川につけました。すぐに上がって、ぶるぶるっとしぶきを飛ばしました。

「ううん、王さま。ぼくは水では暮らせないみたい」


 羊の王とミティテルは川上へとたどりました。

 とちゅう、浅瀬に迷いこんだ一匹の魚がもがいていました。

「ねえ、王さま」

 ミティテルはその魚から目をそらさずに呼びとめました。

「どうした」

「……あれ、食べてもいい?」

 羊の王も水をのぞきました。

「……食べられるものとは思わないが。おまえがそうしたいのなら食べるとよい」

 ミティテルは前脚で魚をつかまえて、腹にかじりつきました。手のなかで魚はびちびちとはねました。

 赤い身は歯ごたえがあり、味と脂気がいっぱいに詰まっていました。ミティテルはむちゅうになって食べました。

 羊の王が近づいてきて、魚の背中をすこしだけ口にしました。

「……すまないが、わしの口には合わないようだ」

 ミティテルは魚をすっかり、骨まで残さずにたいらげました。


 登るにつれて寒さはきびしくなりました。朝方には霜がおりて草葉を縁どりました。

「ねえ、ブカレストに着くまでにぼくが眠くなったらどうしよう」

「そうなったときに考えるとしよう。いまはさきに進むことが肝要だ」

 白い息をはきながら、羊の王とミティテルは山を歩きました。


 すべりやすい落ち葉に気をつけて歩くうちに、藪にぶつかりました。薮はおおきく手を広げていて、回りこむこともできそうにありません。

 まず、羊の王が藪をくぐってみました。とがった小枝が厚い羊毛に引っかかってしまいました。

 ミティテルは羊の王が藪から抜けだすのを手伝いました。

 こんどはミティテルが藪にはいります。顔にあたる枝を思わず前脚ではらいました。枝はたやすく折れました。

「王さま、ぼくについてきて」

 ミティテルは藪をかき分け、道をつくり、上へ上へと登りました。

「ほう、これは助かる」

 羊の王はミティテルが切りひらいたあとに続きました。


 藪のむこうは、もう山の頂上でした。

 秋風をあびて金色にそよぐ丘。ゆったりとうねり流れる川。赤いれんがの屋根をつらねた建物。

 うす青にかすむ地平線。鳥が一羽、晴れた空を横ぎりました。

「ぼく、とても遠いところにきたんだ」

 ミティテルは太い木の幹に手をかけて立ちあがりました。

「ああ、そうだな」

 羊の王はうなずきました。群れにいたときにはよく手入れされていた羊毛は、いまでは泥や葉にまみれてところどころ固まっていました。


 薄い雨雲がさあっと駆けてきました。

 羊の王とミティテルは木陰へ身を寄せました。

「これが雪になるまで、あとどれほどであろうな」

 羊の王のちいさな声をミティテルはしっかりと聞いていました。


 雨音は静かに、けれども絶え間なくつづきます。ミティテルはしだいにうつらうつらとしてきました。

 そのうちに太陽は低くなり、夜がおとずれました。


 翌朝はやくに、羊の王とミティテルは山を下りはじめました。

「ここを越えれば、ブカレストまではもうすぐのはずだ」

 山は登るより、下りるほうがたいへんなようでした。ミティテルは足元を見ながら地面を踏みしめました。

「ミティテル。あそこに草が生えている。すこし食べてくるから先に行っていなさい」

「はい、王さま」

 羊の王はかたい蹄を鳴らして木々のむこうへ消えていきました。ミティテルはするどい蹄を土に食いこませて、ゆっくり下りつづけました。


 羊の王の叫び声が耳にとどきました。間をおかずに、枝が折れて重いものが滑り落ちる音。

 ミティテルは耳をたよりに斜面を走りました。

 地面がたいらになった川のほとりに、羊の王は倒れていました。

「王さま!」

 ミティテルは駆け寄りました。羊の王はひどくけがをしていました。

「ミティテル……」

 羊の王の声は弱々しくかすれていました。

 

 ミティテルは羊の王に声をかけ続けながらその傷をなめました。

 不意にそばの木が音を立てました。

 思わず顔をむけた先には、ミティテルにそっくりな生きものが二本足で立っていました。

 丸い耳。ちいさくて丸い目。黒い体。手のさきのするどい蹄。

 さきに口をひらいたのは、むこうのほうでした。

「それ、あんたの獲物?」

 ミティテルは目をぱちくりさせました。

「えもの、ってどういうこと?」

 こんどは向きあった生きものが目をまたたかせました。

「だって、あんた熊でしょ? 熊は羊を食べるものじゃない」

「……ぼくは熊なの?」


 羊の王は首を持ちあげて、あらわれた生きものの姿をたしかめました。

「ミティテル……」

「王さま、どうしたの?」

 羊の王の息は苦しそうでしたが、目つきはおだやかでした。

「きっと、ここがブカレストなのだな。おまえとおなじ生きものを見つけられて、よかった」

 ゆっくりと息をはいて、羊の王はことばをつづけました。

「ミティテル。わしはもうすぐ死ぬだろう。そうしたら、おまえが食べなさい」

 ミティテルは思わず一歩あとずさりました。

「王さま、だめだよ。王さまが帰ってくるのをみんな待ってるよ」

「たとえけがをしていなくても、わしは帰れない。羊は弱い生きものだ。ここまで無事に来られたのは、ミティテル、おまえがいたからだ」

「王さま、ぼく、ぼく……」

 ミティテルが首を振っている間に、羊の王はならわしの言葉を唱えはじめました。

「頭に角を。胸に誇りを。この毛や肉は与えるために。われら羊の喜びのために。……わしの肉を、おまえに与えよう、ミティテル」

 羊の王はしずかに目をとじました。


 横たわる羊の王を見下ろして、ミティテルはじっと動きませんでした。

「……その羊、食べないの?」

 さっき木の陰からあらわれた熊が、後ろからそっとききました。

「……わからない」

「食べたほうがいいと思うわ。あなた、すごく痩せてるもの」

 ミティテルは返事をしませんでした。熊は加えて言いました。

「もし食べないなら、埋めておくといいわ。そうすればだれも手出ししないし、次の次の春にはきれいな花がたくさん咲くから」

「うん……」

 ミティテルは肩を落としたままです。


 いつのまにか太陽はかたむいて、日差しがまっすぐに山を照らしました。羊の王の体に、木の影がしま模様に落ちました。

「あたし、熊どうしだからってだけであんたと仲よくしようとは思わないけど、あんたがあたしと仲よくしたいなら、話はべつよ」

「ぼく、熊だったんだね」

「そうよ」

 ミティテルはするどい爪で羊の王の毛並みをすきました。


 さらに時間がたちました。空には星が二つ、三つとかがやきだしました。

「あたし、むこうのほら穴にいくわ」

 おおきな体が枯葉を踏む音が聞こえました。

「……ねえ。ここはブカレスト?」

 熊は帰ろうとしていた足をとめて答えました。

「いいえ。ブカレストはもっと東。でも、人間しかいないところ。熊が行ったら捕まってしまうわ」

「そうなんだ、ありがとう」

「どういたしまして」

 熊が去ったあとも、ミティテルは羊の王と向きあっていました。


 すっかり夜が更けました。聞こえるのは川が流れる音だけです。

 ミティテルはゆっくりと羊の王に近づきました。

 そうして、むかしヨハナのお乳を飲んでいたように、頭をさげて羊の王の心臓を、それから肉を食べました。

 ミティテルはていねいに穴を掘って、羊の王のなきがらを埋めました。

 きれいに土をかぶせ終えたときには、もう朝になっていました。


 山に冬がやってきました。

 ミティテルはからっぽのほら穴を見つけて、ふかいふかい眠りにつきました。

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