1. ちっぽけミティテル
トランシルヴァニアのひろい丘に、羊の群れがありました。
羊の群れには一頭の羊の王がありました。
日が昇り、草を食みに行くまえ。日が沈み、お腹を満たしたあと。羊の王は丘のてっぺんにのぼってめええと声を張りあげます。
ほかの羊は寄り集まってしずかに座り、こうべを垂れます。
羊の王は二言、三言、だいじなことやそれほどだいじではないことを群れのみなに伝えます。
羊の背中が丘いっぱいに広がるようすは、遠くから見ると、まるで地面がもくりと浮かびあがったようです。
いつもせわしく目を光らせている牧羊犬も、このときは草にゆったりと腹ばいになり、一日の季節のうつろいを眺めます。
羊の王の話が終わると、羊たちはいっせいにこう唱えるのがならわしでした。
「頭に角を。胸に誇りを。この毛や肉は与えるために。われら羊の喜びのために」
草のはえない冬になると、羊の群れは煉瓦の屋根の家にはいって、ぱりっとした金色の干し草を噛み噛み、まどろみながら暮らしました。
春がおとずれ、生まれたての子羊がひんやりした若草をおずおずと踏みます。
羊の王は、群れのみなに新鮮な草をたらふく食べさせるために、そして自分でもやわらかな新芽をはやく楽しみたいと思っていたために、あいさつを手短に済ませました。
おとなの羊が頭をさげているあいだ、子羊ははじめて見るもの、すなわち外の世界のまぶしいすべてに目をまんまるくしていました。
ならわしの言葉が終わるやいなや、羊たちは地面に鼻をくっつけます。芽吹いたばかりの若葉はみずみずしくなめらかで、噛むうちにほんのり甘くなっていくのです。
春になりたての太陽をあびて羊毛はやさしくふくらみます。お気に入りの草をさがすうちに、いつしか群れのめいめいは丘いっぱいに散らばっていました。
お昼がすぎておなかも満たされ、羊たちが綿雲のように日なたぼっこを楽しんでいたとき。丘をくだった窪地から、ヨハナの呼び声がめええと聞こえました。羊の王はクローバーの茎を口からはみ出させたまま顔をあげました。
羊の王がゆっくりと声のほうへ歩くと、ほかの羊たちもぞくぞくと同じほうへ向かいました。
窪地を見下ろす羊の群れは大きな扇型にひろがりました。その要にいたのは、ヨハナと彼女のこどものトリフォイ、そして見たこともない生きものの赤んぼうでした。
赤んぼうは地面におしりをつけて座っています。子羊よりもさらにちいさく、トリフォイの脚のあいだにすっぽりおさまってしまいそうなほどです。まっ黒な毛並みは刈られてしまったあとのようにうすく、まるい耳や顔つきは、羊とはまったく違っていました。
羊たちはその赤んぼうを見つめました。
「あれ、なあに?」
ある子羊が聞きました。母親羊は「しいっ」とその子を黙らせました。ほんとうは母親羊も、あれがなんの赤んぼうだか、わからなかったのです。
羊の王はゆっくりと、赤んぼうに鼻先を近づけました。雪に濡れた土のにおいがしました。赤んぼうはつぶらな目で羊の王を見あげ、やわらかい掌でその鼻をぺたぺたさわりました。蹄は、五本の指のさきにちょっぴり生えているだけでした。
「だれか、この赤んぼうの親を見たものはおらぬか?」
羊の王はまわりの羊にたずねました。まわりの羊は、さらにほかの羊にたずねました。集まっていた羊たちはみんな、なにも知りませんでした。
「どうしましょう、王さま?」
ヨハナが上目づかいに訊きました。羊の王は口をもぐもぐさせながら考えました。
その日の夕方、羊の王はいつものように丘のうえで口をひらきました。その足元には、あの黒くてちいさな赤んぼうが座っていました。
「諸君、我ら羊は思いやりにあふれる生きものだ。小さく弱きもの、ことに赤んぼうを見捨てるようなことは、決してない」
何頭かの羊はこくりこくりとうなずきました。その他おおぜいの羊は、じっとうつむいたままでした。
「わしはここに宣言する。この子を群れに迎えいれ、一頭の羊として育てると」
羊たちはいっせいに顔をあげました。そして、赤んぼうのすがたがあまりに自分たちとちがっているのを見て、ざわめきました。
「もちろん」と羊の王はひときわ声を張りました。
「この子は厚い毛並みも、強い蹄も持ってはおらぬ。だが、羊の姿で生まれずとも、羊に囲まれ、羊に愛されて育ったならば、いずれ立派な羊になるに違いない。我らは一丸となってこの子を守り、導いてやろうではないか」
羊たちは静まりかえって赤んぼうに目を注ぎました。反対するものはありませんでした。
赤んぼうはミティテル(ちっぽけ)と名づけられました。
ミティテルは子羊トリフォイといっしょにヨハナのお乳を飲んで育ちました。寒い日には、群れのみなはすこしずつ毛を分け与えて、ミティテルをくるんでやりました。
まわりの子羊は高くかわいらしい声で鳴きます。ミティテルの喉から出るのは、低くぐるぐるいううなり声でした。
まわりの子羊は春の野原を駆けまわります。ミティテルはみじかい足で地面をはって進みます。
まわりの子羊は青々とした草をほおばります。ミティテルはひとり、ヨハナのお乳を吸っています。
夏がすぎたある日の夕暮れ、ミティテルは子羊たちと転げまわって遊んでいました。
丘のむこうから風がきました。ミティテルはそれを追いかけるように伸びあがり、気づかないうちに後ろ脚で立っていました。
「ミティテル、お行儀のいい羊はそんなことはしませんよ!」
近くにいたおとなの羊がとがめました。
「ごめんなさい。なんだかいい匂いがしたものだから」
ミティテルはいそいで前脚を地面につけて答えました。おとなの羊は鼻をひくひくさせたあとで顔をしかめました。
「牧羊犬の餌の、死んだけもののにおいがするだけよ。わたしたちは新鮮な生きた草を食べられるのだから、そんなことを言うんじゃありません」
「はい、ごめんなさい」
ミティテルのうしろで、子羊たちはくすくす笑っていました。
おおきくなるにつれて、ミティテルの蹄は伸びました。けれども指先から突き出すばかりで、掌はやわらかいままでした。
「ほら、ミティテル。また蹄が鋭くなっているわ。お友達にけがをさせたらたいへんよ」
金色の朝日のしたで、ヨハナはミティテルの足元を見て言いました。
「うん、母さん」
ほかの羊たちが草地に鼻をうずめるなか、ミティテルはひとり岩場へ行きました。
ご飯も食べずにざらざらした岩でけずり続け、一日かけてようやくすべての蹄が丸まりました。
赤い夕日におおわれた丘で、羊の群れはならわしの言葉を唱えました。
「頭に角を。胸に誇りを。この毛や肉は与えるために。われら羊の喜びのために」
角も羊毛もないミティテルは、いつものようにうつむいて口をつぐんでいました。指先はひりひりと痛んで、立っているのもつらいほどでした。
雪がちらつくころになると、羊の群れはあたたかな羊舎に移りました。
ミティテルはなぜだかまぶたが重くてたまらず、朝も夜もおかまいなしに藁にもぐって眠りこんでいました。おとな羊が声をかけても、子羊がうっかり踏んづけても、目を覚ましませんでした。
また春がきて、羊の群れは雪崩のように丘にあふれました。ミティテルもおなかがすいてたまらず、味のつまった草や蜜をたくわえた花をむさぼりました。
地面に鼻先をつけながら歩いているうちに、ミティテルは茂みに頭をつっこんでしまいました。しなやかな細い枝がぴちぴちと顔に当たりました。
ミティテルは枝の先の新芽を食べました。さわやかに甘い、赤い蕾も食べました。幹を抱くように二本足で立ち、木の皮もはいで食べました。
「ミティテル!」
おとな羊のするどい声です。
「行儀が悪いぞ。おまえも羊なら羊らしく、地面の草を食べるもんだ」
「ごめんなさい、おなかがすいていて、つい……」
ミティテルは茂みの根元に生えていたカタバミをむしりました。
「得体の知れないおまえを拾って育てた、王様やヨハナの恩を忘れちゃいかんぞ」
「はい、おじさん」
ミティテルはすっぱい花びらを噛みしめました。
太陽のまぶしさが増すように、影の黒さがくっきりとするように、夏にかけてミティテルはむくむくおおきくなりました。ミティテルは一日じゅう草を食べどおしでした。なかでも歯ごたえのある草の実を見つけると奥歯でずっと噛んでいました。
トリフォイたち若い羊のあいだでは、かたい角をぶつけあって、力くらべをするのがはやりでした。
角をもたないミティテルは離れてそれを見ているだけでした。
若い羊はまるでミティテルがいないかのように振る舞いましたが、ときおりミティテルを盗み見てはしのび笑いを交わしていました。
夏のさかりのことでした。
ミティテルは照りつける日差しをさけようと、また、じんわりと甘い土の味がする木の根をかじろうと、茂みに頭をもぐりこませました。
そのときです。一匹の野ねずみが浅い土のしたから跳びだしてきました。
見えるか見えないかの土埃にミティテルの鼻がうごきました。つぎの瞬間、ミティテルの手はひとりでに野ねずみへと伸びていました。
野ねずみは右へ左へと逃げまわり、ミティテルの掌は地面をたたきました。野ねずみを追って、ミティテルは丘へ駆けました。
遊んでいた若い羊たちはとつぜんに姿をあらわしたミティテルに目をまるくしました。
「どうしたんだい、そんなにあわてて?」
声のほうへミティテルが顔をむけた、そのわずかなすきに、野ねずみは見えなくなってしまいました。
「ねずみを、追いかけてて……」
ミティテルは息を切らしながらこたえました。羊たちはいっせいに笑いだしました。
ひときわおおきな声で笑ったトリフォイが丘のうえから呼びました。
「そんなに遊び相手がほしいなら仲間にいれてやるよ。ほら、ぶつけっこだ!」
若い羊たちはむりやりにミティテルを遊びに引き入れました。
「そら、逃げるなよ、ちっぽけミティテル!」
トリフォイは二、三歩うしろに下がってから、勢いよく飛びだしました。
その力づよさときたら、群れでいちばん立派な体格の羊、ノルでさえもしりもちをついてしまうに違いありません。
けれどもミティテルはびくともせず、はね返されたのはトリフォイのほうでした。
トリフォイは声もだせないまま丘を転がり落ちました。ほかの羊は驚きのあまり、身動きもできませんでした。
ようやく止まったトリフォイはばったりと倒れたまま起きあがりません。ミティテルと若い羊たちはあわててトリフォイのもとへと駆けました。
トリフォイのじまんの角はぐらぐらとして、根もとからは血がでています。
若い羊たちはおとな羊を呼びに駆けました。ミティテルもその後を追いました。
一頭の羊がふりかえり、目をつり上げてどなりました。
「ついてくるなよ、怪物!」
ミティテルが立ちすくむ間に、羊たちはまわりからいなくなりました。
ミティテルはうしろを向きました。トリフォイは横たわったままです。名前をよんでも返事はありません。ミティテルはトリフォイのそばに座りました。
やがておとな羊たちがやってきて、ミティテルを追いはらいました。
運ばれるトリフォイを見おくって、ミティテルはひとり岩場へいきました。
そうして日が暮れるまで、ただただ蹄を削りました。
群れの羊がかわるがわるトリフォイを手当てしました。
ミティテルに声をかけるものはありませんでした。ヨハナもトリフォイにつきっきりになっていて、ミティテルを気づかってはいられません。
ミティテルは謝らせてもらうこともできず、毎日岩場でうなだれていました。
そんなミティテルの背中を、羊の王だけが見つめていました。
けんめいな手当てのおかげでトリフォイの角がぐらぐらしなくなったころ、羊の王は群れを集めて告げました。ミティテルもいちばんうしろの、みなからは離れたところで聞いていました。
「諸君、あやまちは時に恥ずべきことだ。しかし、あやまちに気がつかないのはよりいっそう恥ずべきことだ。そしてもっとも恥ずべきことは、あやまちに気がついていながら気がつかないふりをして、あらためようとしないことだ」
いつもとは調子がちがうその言葉に、羊たちはおたがいこっそりと見交わしました。
羊の王はゆっくりと続けます。
「昔、わしはこう言った。羊の姿で生まれずとも、羊に囲まれ、羊に愛されて育ったならば、いずれ立派な羊になるに違いない、と。しかし、それはまちがっていたと言わざるをえない」
羊の王のほかに言葉を発するものはありません。
「わしは、ミティテルが羊ではないことを認めよう。ミティテルは羊とおなじように暮らしていては、羊とおなじだけの幸せを手にいれることができぬのだ」
羊の群れはいっせいにふり向きました。ミティテルにとっては、そんなにまっすぐに羊たちから見られるのはずいぶんと久しぶりのことでした。
「それはあいつがわがままなだけだ!」
一頭のおとな羊が声を荒げました。ところどころで「そうだ」「そのとおり」と応じる声がありました。
「それはちがう」
羊の王のことばに、群れはしんと静まりました。
「もしも我らが、二本足で歩かねばならず、食べられるものが木の実だけだったとしたら、さぞかし不自由なことだろう。我らはこれまで、ミティテルにおなじことを強いてきたのだ」
反対するものはありません。先ほど声をあげた羊たちはうつむきました。
「ミティテルにはきっと、この群れにいるよりも、しあわせに、自然に暮らせる場所があることだろう。いままでの過ちをみとめ、その場所を見つける手助けをすることこそが、我らの新たなつとめだ」
「でも、それはどこですか?」
ささやくようにたずねたのはヨハナでした。羊の王はもったいぶってからこたえました。
「ここからはるか南に行った先に、ブカレストというところがあるそうだ。そこには二本足の生きものがおおぜい暮らしているらしい。ミティテルのいるべき場所はそこではないかと考えておる」
「ブカレスト?」「ブカレストだって」
はじめて聞いたその名前を、羊たちは口々にくりかえしました。ヨハナはミティテルと羊の王を交互に見くらべます。
「もちろんミティテルをたったひとりで旅立たせるつもりはない。わしが共に行く」
いっせいに驚きの声があがりました。あまりにおおきく響いたので、牧羊犬が立ちあがるほどでした。
「この丘から離れるなんて!」
「どうして王さまがわざわざ?」
ひとしきり羊たちの声を聞いてから、羊の王は問いかけました。
「ならばこの中で、ブカレストまでミティテルを送り届けようというものはいるか?」
ざわめきはよりおおきくなりました。けれども名乗りでる羊はいませんでした。
「だれかがしなければならないことをする。それが王だ」
「けれども王さまがいない間、私たちはどうすればよいのですか?」
「心配はない。ノルにあとをまかせる」
羊たちの視線は、こんどはいちどきにノルへとむけられました。
ノルはおおきな体を揺すって重々しくうなずきました。
この集まりのあいだ、ミティテルはひとことも口をききませんでした。
羊の群れはそれからおおいそがしで旅のしたくをととのえました。
丘を出るまえに、ミティテルはヨハナにききました。
「母さん、ぼくはまちがいなの?」
「いいえ、ミティテル。まちがっていたのはわたしたちよ。ごめんなさいね」
ヨハナはミティテルにほおをすり寄せました。
「でも、みんながぼくをまちがって育てたのなら、ぼくもまちがいってことにならないの?」
ヨハナはそれにはこたえず、ただ首を横にふりました。
ミティテルはヨハナのやわらかな羊毛に顔をうずめました。
「ああ、ミティテル」
ヨハナがため息をつきました。
「あなたがふつうの羊だったらよかったのに。……でも、そうでなくても、あなたはわたしの大切な子供よ」
「……ぼく、もう行かなくちゃ」
ミティテルは立ちあがりました。ヨハナをふりかえりはしませんでした。
羊の王の後をついて、ミティテルは丘のてっぺんへ登りました。
羊の群れが暮らす丘の南にはまた丘があり、高い丘があり、低い丘があり、緑の森におおわれた丘があり、はるか先には高い山がありました。
「王さま、ここからブカレストは見える?」
羊の王は目をほそめました。
「……いいや」
それから「きっと、あの山をこえた先であろう」とひとりごとのように続けました。
羊の王とミティテルはだまって行く手を見つめました。
「行こうか、ミティテル」
羊の王はしずかに言いました。
「はい、王さま」
丘を下りはじめてしばらくしたとき、「ミティテル!」と呼びとめる声がしました。
首をめぐらせてみれば、丘のてっぺんには、トリフォイが太陽に照らされて立っていました。
ミティテルはまるい目でかれを見あげました。
トリフォイは首をふり、何度か蹄で土をかきました。
それから顔をあげて群れじゅうに聞こえるほどに声を張りあげました。
「元気でやれよ!」
「ありがとう!」
ミティテルも負けないくらいのおおきな声でこたえました。
こうして、羊の王とミティテルは、ブカレストへの旅をはじめました。