記憶
例の分厚い本をわきに抱え、次の日の昼にアクア・マーモット・シュルトリスの部屋に訪れた。ノックすると、すぐさまどうぞと彼女の声が聞こえてくる。
ベッドに座っている彼女に本を返すとそれを受け取り、彼女は聞いてきた。
「しっかり目を通してきたかしら?」
「読んではいないけれど、すべてのページを見てきたのは確かだ」
「そう、分かったわ。まず第一問目、奥付についてどうかしら」
本当に見るだけで正解だったのか不安だったが、それでよかったようだ。
彼女はこの前のように蒼い髪をかき上げながら問題を出してきた。
「君がその質問をしてくるような気はしていたよ。答えは‘‘ない’’が正解だろ?」
リンも予想していた通りですねと呟いていた。
余裕ぶった態度でそう答えたが、彼女の第一問目というのが腑に落ちない。
「では、次よ。といってもこれが最後の問題なのだけれど」
彼女は真剣な眼差しを向ける。青の瞳が煌めいたように思えた。
静かに彼女は問題をだした。
「最終問題。348ページの3行目には、どのような文章が書かれているかしら?」
答えられるわけがない。仮にあの分厚い学術書をしっかりと真面目に律儀に読んでいたと仮定をしても、この問題に答えられる人間なんていないだろう。
意図が理解できない。いや、そもそも理解できる言動や行動が彼女にはなかった。どうやら、彼女の妄想、狂言に付き合わされてしまったようだ。
「答えは分からない。悪いが、もう帰るよ」
冷めたように言い、病室を出ようとした。
頭のおかしな奴に付き合っていられない。
彼女は俺の背に向けて、心臓を握るような言葉をかけた。
「いいえ、答えが分からないというのは嘘よ。だって私はあなたが狂人だと知っているのだから」
「あなたは狂っている。そうでしょう。だから答えられるのよ」
確かに俺は妄執に憑りつかれている。他者からすれば俺も紛れもない狂人だろう。
だが、無理なことは無理だ。
リンが申し訳なさそうに俺に声をかける。
「その……ご主人様、分かりますよ。348ページの3行目の内容」
何故?と思ったと同時に、俺の中で引っかかっていた何かが氷解していった。
過去に読んだ本の内容を彼女が完璧に覚えていたこと、アクア・マーモット・シュルトリスという名前を聞いたときにマーモットを齧歯目リス科の動物であることを知っていたこと。奥付という言葉の意味を俺が知らないのに彼女が知っていたこと。
不自然じゃないか。リンという存在が全部、不可思議なんだ。
だから彼女、アクア・マーモット・シュルトリスの言う通り、リンなら言い当てられるのかもしれない。
「言ってみろ。命令だ」
はっきりと声にだして、リンに命じた。謎の少女の前で記憶能力を証明する必要などなかった、けれど今、確かめたかった。
ベッドに座った彼女に向き直る。
「「の存在は言うまでもなく現実である。だからこそ概念融合は否定するまでもない」」
リンが言うのと同時に、俺はシンクロするように同じセリフを言ってみせた。
彼女は348ページを開いて、そこに目をやった。
拍手する音が部屋に響く。
「エクセレント。ようやく私たちの悲願が叶う時がきたようね。私はあなたのような狂人であり、常人である者を待ったいたのよ」
「どうして俺が狂人だと知っている?」
「昨日、あなたが訪れたときにすでに確信していたわ」
「それで俺のような仮初めの記憶能力を持つ人間に何の用件だ」
「仮初め?あなたはこの本を記憶しているじゃない。通常こういった完全記憶能力を有している人間は言語能力が疎かったり、視覚能力が失われたり使い物にならないのよ。けれどあなたは違う。常人でありながら狂人なのよ」
リンの存在に彼女は気づいていないのか、俺の事をどの程度把握しているんだろう。
彼女は俺が完全記憶能力を持っていると勘違いしているに違いない。だが実際、俺自身は本の中身を一切覚えていない。今までの体験から憶測するなら、オレが体験したものをリンが完全に記憶している状態なのだろう。
「あなたには世界を救ってもらわなければならないの」
やはり彼女は正気の人間ではなかったようだ。ここは脳に問題を抱えた人たちがいる病棟で、狂人は俺だけではないのだ。彼女の場合は精神科の方がよっぽどお似合いだと思う。
「俺は君の空想に付き合いきれないから、帰るよ」
「空想という言葉で片づけられるかしら」
彼女は不気味に笑い言い放ち、ベッドから降り立つ。
右拳を握った彼女は、その拳に息を吹きかけた。
「同一線上の結び、交差させる輪郭、概念の集合より今ここに在る」
呪文のように空に異質な言葉を並べる。
その奇怪にセリフに呼応するにように頭に痛みが走った。
両方のコメカミが抉られる痛み。
強烈すぎて、頭を片手で抑えその場に跪く。
「大丈夫ですか。ご主人様」
リンに返答することもできないほどの痛みだった。
奥歯を噛み締めて、その痛みは過ぎ去るのを待つ。
空気がシンと張りつめたときに、頭痛が消え去っていた。
深呼吸をし立ちあがる。気が狂った女に付き合ってられない。
病室から出よう、ドアを開いた。
扉の向こうは、病棟の廊下ではなくなっていた。
無上の闇がそこには広がっていた。
先が見えない暗黒。
「どういうことだっ!」
俺はそう叫び、振り返る。
そこにいたはずの彼女はいなくなっていた。
そして、病室でもない、暗闇だけの空間に取り替わっていた。
扉があった場所が、わずかに発光し俺とリンと照らす。