メイド
塩の匂いがする。
目が覚めると先程、見た同じ白に囲まれた病室。朝日がカーテン越しからでもわかるように燦燦としていた。眩しくて目をうまく開けられない、窓の外を眺めよう、ベッドから起き上がる。真っ白な部屋と同じような病衣を着させられていた。
ふいに、後頭部の穴の開いた部分が気になり手で触れてみた。驚いたことに、昨日あったその穴は塞がっている。
昨日……絶対に違う、寝て起きてすぐに頭蓋骨が塞がれている訳がない。
何日寝ていたのだろうか、分からない。
考え事をしたせいだろうか、頭がズキズキと痛み始めた。
窓の外は一面海。なるほど塩の匂いがするわけだ。
ほぼ快晴の空は青く、そして連綿と拡がる蒼だけを視界がとらえる。ここはどこなのだろうか……
気付かなかったが風景にピンとが合っている。自分の視力が回復している。手術をしたせいなのだろうか?腫瘍か何かが視神経を圧迫していて、それを切除することで元に戻ったのだろうか?
多くの疑問が募るばかりだ。
端に設置された洗面台で顔を洗って、意識を覚醒させるのがベター。
オートセンサーの蛇口から流れる水。
そして鏡面に写る自分。
これが自分なのか判断を下せない、何故なら自分の顔を忘れていた。驚いたり、呆然としたりすることもできない。何もかもが抜け落ちてしまった気がする。
容姿の整った青年が鏡の向こうから戸惑った顔でこちらを見ている。
頭の疼痛が強まる。自分の名前が思い出せない。自分が何者なのか思い出せない。記憶喪失。
考えられるのは頭の手術の後遺症。
容姿の良さから考えてアバターなのかもしれない、つまりはこの空間は仮想のヴァーチャルシステムの可能性がありえる。
「オープンウィンドウ」
ここが仮想なら口頭コマンドでメインメニュー画面が宙にでるはずだったが、無反応。
どうやら現実だと考えてもいいだろう。
いや、軍用のシステムか独自にシステムハックされたコンソールならコマンドを受け付けないように出来る。
自分の妄想に鼻で笑ってしまう。馬鹿話だ、ありえない。
もう一度、顔を水で流す。
顎から水が滴るのを眺め、水滴がぴちゃりと洗面台に跳ねる。
「ご主人様、お身体は大丈夫ですか?」
鏡の奥に幽霊メイドが立っていた。 朝日に照らされる幽霊、そんなものが存在するとは考えずらい。けれど、部屋に音もなく一瞬で現れたんだから、彼女は幽霊に違いないだろう。病院だし、ありえない話ではないと思えてしまう。
背後にメイドが急に現れたことと、彼女の愛らしい声が胸を締め付け心臓をドキリとさせる。また過呼吸で倒れるのかもしれないと感じるほど鼓動の早鐘を打ち始めた。自分でも驚くほどに彼女のあらゆる要素が胸が締め付ける。
何か大事なことを忘れているかもしれない。
だから、冷静を取り戻すために深呼吸をする。
すーっと息を吸うたびに塩の薄い匂いと、彼女からするシャンプーの甘い匂いがして鼻腔をくすぐる。
女はなぜこうも良い匂いする時があるんだろうな。
「いい匂いだ」
無意識にそう呟いてしまう。
「そうですね。海の匂いはどこか懐かしい思い出を想起させて私も好きなんです」
海の匂いの方だと勘違いしてくれたみたいだ。自然と幽霊メイドと会話できた不思議さに、少し驚く。
「ああ……そうなんだ。ところでここはどこなのかな?それから俺の手術はうまくいったのかな?」
「いえ、ご主人様の知らないことは私にも分かりかねます。役に立たなくてごめんなんさい」
「ああ。いやこっちこそ考えもなく質問をして悪かった。そうだよね」
≪君は幽霊なんだから≫と失言しそうになったので俺は言葉の先を飲み込む。
「あとどうして君は俺のことをご主人様と呼ぶんだい?」
一番の謎であるもっともすべき質問をメイドに投げかける。
「どうしてと言われましても、困ってしまいます」
そうだな、言い方が良くなかったのかもしれない。両親にあなたがなぜ自分の親なのかと問うようなものだ。メイドにとっては当然のことなのかもしれない。質問の変更するべきだ。
何か別の方法から彼女の情報を引きだそう。
具体的なことよりも抽象的質問の方が初めはいいかもしれない。
「君は誰?」
「私に誰と聞かれましても、どうお答えすることが最善なのか分かりかねます」
今度は抽象的すぎようだ。上手くいかないな、もしかしたら自分は会話のセンスがない人間だったのかもしれないな。
幽霊だから記憶がないのかもしれない。
とりあえず場当たり的に名前を聞こう。
「名前は何?」
彼女は背筋を伸ばし、俺と正反対に落ち着いて答える。
「私の名前はまだ決められていないです。それはご主人様が名付けられるものですから」
メイドに名付けるのもご主人様の仕事なのか?よくわからないな。ロマンはあるが。
そうじゃない、今はそこが問題ではない。
「違う、死ぬ前の名前を教えて欲しいんだ。君は野中りん、という名前じゃないのかい?」
なぜか不意に頭によぎった名前を口にする、それが誰かもわからないのに。
「いえ、違います。勘違いなされていますが私は幽霊ではございません」
幽霊ではない?ここにきて前提が覆される。
積み上げてきた自分の考えが、土台から崩されたようなものだ、理解が追い付かない。
「君は何?」
メイド然とやはり落ち着いたようすで彼女は可愛く答える。
「複雑ですが、一言で言うならば私はあなたの偶像です」
偶像、崇拝対象ということだろうか。いまいち理解出来ないから俺という人間は頭も悪いのか?
「崇拝対象ってこと…」
チンプンカンな様子を察したのか彼女は付け足すように言う。
「崇拝対象というのも違います。ご主人様の理想の女性を体現した姿が私なのです」
確かに、彼女は俺の理想だ。ドストライクなのだ。
理想の透き通った愛らしい声に、整った顔に口元のほくろがあり大人びて見える、そして妖艶な女性らしい体形。
さらに言えば、メイドの服も素晴らしいといえよう。
スリーストライク、バッターアウト。
まごうことなき俺の理想だな。
「君が俺の理想のメイドだというのは、心から頷ける。けど、君は何?という根本的なものは解決されていないと思うんだけれど……。俺が知っている限り君のような存在は幽霊じゃないかな」
彼女は少し困り顔で言う。
「失礼になるかもと思い、はっきり言いませんでしたが…私はご主人様の想像なのです」
鼻で笑って返す。
「いや、頭の手術を受けたからといってここまで気がおかしくなる訳ないだろ」
そして彼女の頬をツンツンし、そこから彼女の手をぎゅっと握る。
メイドは少しびっくりした様子でこちらを窺うっている。目が少し開いたその表情はぐっとくる。
「妄想にしては感触がリアルすぎる、というか実際に触れているじゃないか君に」
「お言葉を返しますが、幽霊にだって触れることができてしまうのはおかしいと思いますよ」
確かに、メイドの言う通りだ。付け加えるように説明を始める。
「脳は、その脳の所有者である本人にすら害を与えます。とりわけ多くの場合、死に直面し脳が損傷した場合に事例が多くみられます。心的外傷後ストレス障害の様に、事故直前の情景が何度もフラッシュバックを起こすような例、LSDなどの幻覚剤を使用した時と同じ症状を起こす事例。……これは沼山裕二の『脳の限界と構造』、134頁から引用させていただきました。つまり、ご主人様は脳を手術した結果、私を作り出してしまったのではないかと思われます」
メイドが急に怒涛の説明をするから圧倒されてしまう。
沼山裕二の『脳と限界と構造』は確か新書で読んだことがある。
なぜかこういう無駄な記憶はまだ覚えている。
もし彼女の言う通りであるならば、俺は本当に頭が狂ったようだ。
どこかでその狂いに実感をしている自分がいる。
彼女の頬に手を触れる。
冷たい指先を温める人肌を確かに俺は感じている。
目の前の美少女は哀しい目で俺を見つめ、そっと頬に当てられた手に彼女の手を重ねる。
病室をタイミングよくノックする音が聞こえてきた。