プロローグ
地平線の向こうに沈みかけた夕日が住宅街の道路を照らし、バーチャル 電柱広告の影が長く伸びている。自分から伸びた影を踏むように歩くせいか異様にコンパスが長く感じる。右手に持ったデバイサーとイヤホンを繋ぐ線も不思議な影を地面に描く。
頭の中で体験したことのない細胞の蠢きを感じ、左手で反射的に頭半分を覆おうとするも、橙色の街が拉げ歪む。ぐにゃり。歪曲。
直感で理解する、視界が均衡を失いバランスを崩し世界が回転をしている。
立ち並んだ住宅、研磨され光沢を持った人工石の道路、路傍のライフ・ズェイカー製450㏄の単車、ありとあらゆるものが否応なく捻じ曲げられる。
視界がシャットダウン。回っていた世界は暗転し、身体も重力に逆らうことなく頭を地面に叩きつける。意識は何処にもない。
闇がそっと肩に手を置き、どこかに連れ去っていった。
虚しく割れたデバイサー画面、外れたイヤホンから微かに愛らしい声が漏れ響く。天使の声に違いなかった。
次に聞こえてきたのは耳慣れない一定のリズムを刻む電子音。
月明かりがカーテンの隙間から漏れて、うす暗い部屋をほんの少しだけ明るくしている。白い部屋。
見たこともない天井がうすらぼんやりと見えた。手には線が絡まっている。病院のベッドだと判然と理解する。
頭を触ってみると、包帯が馬鹿みたいにグルグルと巻かれその上から、さらに果物みたいにネットが被せられている。
後頭部のあたりを触るとグミの様な脳みその感触が伝わった。
頭蓋骨の一部が切り取られている。
ダイレクトに脳に触れたことで吐き気を催し、慌てて上半身を起こし、右手で口を覆うが一瞬で吐き気が引く。
目の前には漏れた月明かりに照らされた少女がベッドの前に立っていたからだ。病院のベッドで、夜遅く誰もいない部屋にもやもやとした黒い少女。
幽霊、直感というよりも病院からの連想。
口に当てた手をおろせも出来ず、声も出せずただ目の前にいるそのもやもやした黒い少女を見ることしか出来なかった。恐怖を感じている訳ではなく、純粋な驚き。
少女は足音もなく歩いて近づく。
視力が悪い為、ぼやけて視認していたが、少しづつその少女の容姿がはっきりと輪郭を持ち、露わになる。
目の前にいる少女が幽霊なのだとしても、それを忘れさせる容姿。
美しいという安直な言葉だけが脳を支配し、我を忘れ彼女を見つめる。
もやもやとした黒い少女だった訳とは、彼女が来ていた服がゴシックなメイド服だったからだろう。
豊満な胸を強調するかのようなコルセット、黒のニーハイで足は肉付きの良さがわかる。絶対領域が艶めかしい。
ミディアムな長さの黒髪で毛先にパーマをあてすこしふわっとしている。少し大人びた雰囲気。
目が悪いせいで、その黒を基調としたメイド服をはっきりと視認できずに怖いというイメージが先行し、ふわっとしたイメージだけで言語化した結果もやもやした黒い幽霊の少女だと認識した。
目の前にいる少女が何者なのか、幽霊なのだろうかという点を考える必要性はないと思える。
この病室でメイドの美少女に会えた、それだけでもう自分の今の状態だとか、全く問題なんてどこにもないように思える。
そういや倒れてここに運ばれたんだったな。
彼女の目を見つめながらそのことを思い出した。
「あのご主人様?大丈夫ですか」
心が震える。ドックドックと急に心臓が鷲掴みされた感覚。いや、握撃だ。
ああ、この幽霊はこういったカタチで人を殺めるのか。
電子音が一定のリズムからピッチを上げてリズムを刻み始めた。
過呼吸になり異常な酸素量を脳は感知し、視界はぼやけ始める。
目の前のメイドは慌てふためくが、手を握り落ち着いてくださいと言葉をかけてくれる。
命を奪いたいのか、助けたいのか、どっちなんだ……
いや、優しく接してさらに心拍数を高めようという算段なんだろう。
その効果はどうやら覿面だってようで、心拍数は漸増していく。
足跡が遠くから聞こえてくる。
天使のお迎えだろうか。
やけに騒々しい足音だったがどうでもいい、美少女のメイドに見守られながら死ぬのだから。
頭がふらつき視界が歪みはじめた。
ぎゅっと握られる手に違和感を覚えながら、シャットダウン、暗転。
愛らしい天使の声に囁かれながら。