5 姫と悪魔と悪代官
代表会議のあと、会議に出席した各支店の代表社員と本社の社員も合わせての小規模な懇親会が、別会場で開かれた。
林田主任を始めとする札幌支店の方々は、飛行機の時間があるからとその会には参加せずに帰って行った。
申し訳ないけど、林田主任が帰ってくれてホッとした。
懇親会は、ビールやジュース、お寿司やサンドイッチなどの軽食やつまみが並んだ簡単な立食形式だった。
私は野上さんや相原くんと同じテーブルで、軽く食べながらウーロン茶を飲んだ。
遼平さんは、坂口課長とビール片手についだりつがれたりしながら、各テーブルを回っている。
会議で疲れたと思うのに、バイタリティーがある人たちだと思う。
私たちもそうすべきなんだけど、有馬部長が今日はただ好きに飲み食いだけしてれば良いと言って下さったので、特に何もしないで自分たちのテーブルで雑談しながらのんびりしていた。
「そういえば、なっちゃん、会議室から戻って来るのがやけに遅かったよね」
野上さんがかっぱ巻きを頬張りながら、突然、思い出したように言ってきた。
あ、どうしよう。
遼平さんと林田主任とのことは話せないけど、異動の話はもう言っちゃっていいのかな?
そうだ、リモコン。
「スクリーンのリモコンが電池切れだったみたいで、上がらなくて、それで電池を交換してたんです」
「え? そうだったんだ。でもそれだけにしては……」
納得してない顔だよね。
「実は、その、部長がいらっしゃって、異動の話を……」
「異動って、ほんとに!?」「どこに!?」
野上さんと相原くんが、さすがに驚いている。
「大声を出さないで~。正式に辞令が出るまで内緒にしててくださいね。総務課へ異動の予定です」
「なんかヘマしたの?」「そうなんだ」
野上さん、ひどい。相原くん、そんなあっさりと。
「……ヘマはしてないと思うんですけど。部長がおっしゃるには総務課からのお話だそうです」
「へえ、総務のほうから?」
相原くんが、真面目な顔つきで私を見つめてきた。
「逢坂主任はそのこと知ってるの?」
「うん」
「それならまあ……」
相原くん? 何か気になることでも?
懇親会がお開きになると、遼平さんが私たちのテーブルにやって来て、私たちの顔を見渡した。
「ゆっくり食べられたか? 3人とも、色々ありがとな。構ってやれず悪かったな。俺は二次会には出ないで帰るから、おまえたちも帰るならタクシーで駅まで送ってやるよ」
「ありがとうございます」
野上さんと相原くんは駅から電車だが、私はバスだ。
一度駅前で4人でタクシーを降りて、駅に入って行くふたりを遼平さんと一緒に見送った。
遼平さんは、私を促して別のタクシーに乗り換えた。
ふたりで後部座席に落ち着くと、遼平さんはネクタイを緩めて、少し疲れたように深い息を吐いた。
「本当に、お疲れさまでした」
「ああ、奈由もな」
「いいえ」
遼平さんは言葉には出さなかったけど、会議のための資料の原案作りから始まって、打ち合わせや司会もあって、かなり大変だったと思う。
少しゆっくりしてくださいね。
それにしても、まさか私が異動することになるなんて、思ってなかった。
総務課か。お盆休み明けからと言われた。
もしかすると、営業より総務のほうが向いているかもしれないし。
頑張るしかない。
遼平さんの直接の部下でなくなるって、どんな感じになるんだろう。
みんなに私のドキドキがバレないかとヒヤヒヤしないで済むかな。
「どうした? 具合悪いのか?」
遼平さんが、私の様子を窺っている。
「いいえ、具合は悪くないです。ちょっと考え事を」
確かに生理中は、顔色が少し悪くなるかも。
そうだ、遼平さんに話しておかないと。
「遼平さん、あの……」
運転手さんに聞こえないように、遼平さんの耳元で小声で女の子の事情を話した。
「そんなわけなんですけど、それでも泊まっていかれます?」
遼平さんが一瞬ピクっとして顔をしかめたみたいに見えたけど、潰さない程度の強さでぎゅっと私の手を握った。
身体に電気が走った。お酒なんて飲んでないのに、カッと熱くなる。
「奈由の体調が悪くなければ、俺はもっと一緒にいたい。いいか?」
「はい」
私も少しでも長く一緒にいたい。
タクシーから降りて、私のアパートの蒸すような暑さの部屋へふたりで入った。
玄関の照明のスイッチに手が届く前に、暗闇で遼平さんの腕に捕まった。
「きゃ……暗いし、暑いですよ」
「あれ? 奈由は暗い方が良いんじゃなかったか?」
「時と場合によります……」
遼平さんの掌が私の後頭部に回った。
「だめな日に限って耳に息かけてくるし、しかも唇があたってゾクゾクしたぞ」
少しお酒の臭いの残る熱い息が頬にかかる。
ひゃっ! わ、私の方がなんだかゾクゾクしてきましたけど。
タクシーの中でのこと言ってるんですか?
だから顔をしかめたの?
「だって、タクシーさんに内容を聞かれたら恥ずかしいじゃないですか。それに揺れるし、仕方がないですよ」
「また、わかってないな」
「!?」
急にお酒の味がする動くものが口一杯に侵入して来て、軽い眩暈に襲われた。
『どろどろにとろかしてやるから』
言葉の通りかもしれない。
脳が麻痺してどこもかしこも溶けてしまいそうになる。
身体の力が抜けていく。
「ん……」
もう、酸欠です、立っていられない、限界です、と言いたいんですけど。
遼平さんが気が付いてくれて、唇を離すと背中をしっかり支えてくれた。
「林田からはすぐ逃げろと言ったのに、いつの間にかふたりきりになってるし」
だって、林田主任の方がドアの近くにいたんですもん。
「それから、携帯は鳴ってるし……」
遼平さんの口調が、気の抜けた残念そうな感じに変わった。
足元に無造作に置かれていた私のバッグから、携帯の明るい光とバイブの音が聞こえている。
「電話に出ていいぞ」
「あ、すみません。じゃあ」
遼平さんがバッグを拾い上げてくれた。
その中から携帯を取り出して背面液晶に見えたメッセージ、弟からの着信だった。
「弟です。いつも泊まりに来るときとか急に電話を寄こすんです。出ないとそのまま突然来ちゃったりするんですよね」
「悪魔な弟くんか……」
悪魔?
私は慌てて電話に出た。
遼平さんが、部屋のあかりとエアコンをつけてくれている。
「もしもし、今日はだめだよ!」
――何もまだ言ってないけど。なんで?
「今日はプライベートで用事があるから!!」
――男?
「う……」
――図星? 今いるの?
「……だから、今日と明日は来ないでね」
――わかった。
そう言って通話が切れたので、ホッとして私も携帯を折り畳んだ。
「もう話終わったのか?」
「はい」
ピンポーン!!
へ?
遼平さんと私は顔を見合わせる。
どういうこと?
「姉貴ぃ~」
ドンドンと玄関のドアを叩く音と、弟のいつもの抑揚の無い声が聞こえてきた。
「ミ、ミーくん?」
う、嘘でしょ~!?
「やはり悪魔だな」
「え?」
「いや、ひとりごと。今日の俺の栄養摂取はここまでか」
えいよ……う?
玄関ドアの方へ向きかけた私の顎を、遼平さんの大きな掌が固定する。
「りょ……」
また長く深いキスをされた。
もう、遼平さんたら、さすがに息が続かないんですけど。
もしかして張り合ってます?
弟と張り合ってどうするんですか~!?
「姉貴~、いるのはわかってるからさ、早くドア開けて?」
ようやく唇が離された。
「ミーくん、あり得ないよ。今日はダメって言ったじゃないっ!?」
「わかったとは言ったけど、行かないとは言ってないよ」
うわっ、いつものヘリクツ!
「今後の泊まりは俺の部屋だな」
そう宣う遼平さんは、悪だくみをする人みたいな顔をしている。
なんて言うんだっけ、えーっと……。
遼平さんは後ろから、鍵を開けようとした私をホールドしてきた。
「だめです……って」
自然と小声になる。
身体に這わせるように不埒な動きをする遼平さんの手をやんわり引き離す。
「ねえ、男、来てるんでしょ?」
玄関ドアのノブがガチャガチャと激しく回される。
ミーくん、そこっ、言動がおかしいでしょ!? 普通は遠慮する所!!
遼平さんの手が、お腹に回された。
「あ、ん……だめ。そこ、手がしつこいですって」
「どこ?」
とぼけるの止めて~、お腹、脇腹っ!!
もう、一体何なのよ~この人たち!?
「弟が……」
「少し待たせれば?」
遼平さんのいけない手が私の制止をものともせず、今度はブラウスの裾をたくし上げようとしている。
「や、えげつないこと止めてください!」
「えげつないだって? 奈由、マジで平成生まれ?」
鼻で笑った~!?
な、遼平さんたら、酷い。
頭の中に、この悪行にピッタリと当てはまるその確固たる代名詞が、昔から使い古されているその呼び名が思い浮かんだ。
さっきまでは可愛いスッポンだったのに、今の遼平さんは、
悪代官です~!!
「ごめん、奈由。いたずらが過ぎた。でも涙目可愛い。癖になりそう」
「…………っ」
♢♢♢♢♢♢
そして、部屋に入ってきた弟の第一声。
「で、あなたですか? 僕の無垢な姉を手ごめにしたのは」
わ~!?
「ちょっと、ミーくん、なんてこと!?」
「手ごめって、きみも平成生まれだよね。で、無垢とか……」
いろんな意味で、笑うとこじゃないです。遼平さん!
「はじめまして。弟の光樹です」
「はじめまして。逢坂遼平です。みぃ君」
「その呼び方はしないでもらえますか。家族専用です」
「ほう」
「姉のどこが良いんです? この平凡すぎる姉の」
「ミーくん酷い。お姉ちゃんはそりゃ顔も頭も平凡だけど……」
「胸も平凡なBだし」
「そ、そ、それ言わないで、……て、なんで知ってるの?」
「弟だからって油断して、僕が来てもブラ干しっぱなしにしてるから。まあタグ確認しなくても大体わかるけどさ」
「な!?」
遼平さんは、弟にやり込められている私をそれはそれは穏やかに、にこやかに正視している。
姉としての威厳がまるで無いことが知られちゃった~。
「頭にバカって冠載せてるお姫様みたいにポヤっとしてるから、こんな悪代官みたいな男に捕まって手ごめにされるんだ」
「ミーくん!! 遼平さんに失礼だよ」
ちょっと悪代官って、思考がかぶったんですけど~。
姉弟そろってすみません、遼平さん。
頭にバカ……って、遼平さんの前なんだからミーくんもう勘弁してよ。
「じゃあ、姉貴はこいつに手ごめにされてないの?」
「そ、それは……」
「責任もって、手ごめにした」
り、遼平さん~!!! 平然と言わないで!
「やっぱり」
光樹が白い目で私を見ている。
弟とこういう話をする日が来るなんて、思ってもみなかった。
恥ずかしい。
「光樹君がお姉さんを大好きなように、俺もお姉さんが真剣に大好きだ。結婚したいと思ってる」
え……。
遼平さんが直立不動で光樹に向かって宣言すると、さすがの光樹も驚いた顔になった。
「言う相手が違うんでは? 僕は別にシスコンではないですし」
光樹は、目を泳がせて視線を下げた。
「お姉さんは、ずっと一緒にいたいと思える人だ。優しくてホッとできて、俺みたいな男を嫌がらないでくれる可愛いお姫様だ。俺は誰よりも、親兄弟よりお姉さんを一番に大切にする。だから、まずはお姉さんと俺が付き合うことを認めて欲しい、光樹君」
「誰も認めないとは言ってません。その言葉、お忘れなく。姉をくれぐれもよろしくお願いいたします」
ミーくんが、そんな大人なセリフを言ってくれるなんて、お姉ちゃんは感動だよ。
「お姉さんのことは任せてくれ。認めてくれてありがとう!! みぃ君、じゃなくて光樹君。きみはどこぞの公家のようにイケてる男だな」
遼平さんは、飛びつくように光樹に接近すると、両手を取って無理やり握手していた。
光樹は身体をそらして、眉を綺麗に寄せ、困った顔をしている。
あの光樹が遼平さんの勢いに負けている。
「なんですか、公家って。ぼ、僕、お邪魔みたいなんで、今日は失礼します」
「ミーくん、帰るの?」
「じゃあ、泊まって良いの?」
「あ、えっと。一緒にお茶とか……」
「馬鹿か。今日はもう遅いし、なんとなく居心地悪いから帰るよ」
「心配してくれてありがとう。ミーくん」
「姉貴も、今はこの人が一番なんだろ」
「うん」
「大切にしてもらえよ」
「うん」
光樹はふわっと笑うと、遼平さんにも軽く頭を下げて帰って行った。
笑った顔が、小さかった頃の素直な光樹と重なった。
「ミーくん、ミーくんって、妬けるな。なかなかのイケメンだし。思っていたより悪魔じゃなかったなあ」
「さっきから悪魔って、なんですか……。小さい頃は、物凄く可愛かったんですよ。今もカッコ良くて頭も良い自慢の弟です」
「ふん……。なるほど。弟が悪魔のようになるわけだ」
「?」
「よしっ! 今度は奈由のご両親にも挨拶に行かないとな」
よし!? えっ? 挨拶?
「さ、今日は朝から緊張だったから、くたくただ。早く風呂入って寝よう」
「遼平さんでも緊張するんですか?」
「俺だって鉄の心臓じゃない。強面で身体も声もでかい方だが、普通に緊張するし、怖いものだってあるし、傷つくし、すべてに自信があるわけじゃない。だから、奈由がこれからもずっと一番そばにいて癒してくれたら嬉しい」
「はい」
遼平さんは全然強面じゃない。
少し目を細めて私を見てくれる顔はいつも優しさに満ちている。
遼平さんの温かい手が、私の頬に添えられた。
あなたが私のそばにずっといてくれたら、私も嬉しいです。
何も怖いものはなくなりそうです。
「奈由はもう俺の直接の部下じゃなくなる。だから、もう遠慮しなくて良いんだぞ。俺も遠慮しない」
「はい……?」
って、え? 今まで何か遠慮したことあったんですか?
その吹っ切れたような笑顔、怖いです、遼平さん!