3 動揺と抱擁
そして私は、遼平さんからの贈り物の指輪をしたまま、出社することにした。
大丈夫大丈夫、女の子はみんな指輪のひとつくらいしてるしね。
少し緊張しながら、事務所のドアを開けた。
「おはようございます!」
私はさりげなく、自分のデスクへ移動しようとしていた。
「「おはよう!」」
既に出社している数人は、普通に挨拶を返してくれた。
奥のデスクに遼平さんが座っている姿が見えた。
ペリドットだし、みんなファッションリングだと思ってくれるよね。
悪いことしているわけでもないのに、何だかヒヤヒヤする。
「おはよう!! なっちゃ~ん!? ちょっと、ちょっと~!」
数少ない女性社員の中で一番お世話になっている、第二営業課の野上さんが少し赤めの唇をパクパク動かしながら近づいて来た。
私より2年前に入社した野上さんには、細かいことをすべて教わった。
来客の応対や、電話の取り方、お茶の出し方、コピー機の使い方、コピー用紙の補充のやり方。
日報から必要書類の書き方まで。
研修だけでは足りない所を、細かく指導してくれた人だ。
ちなみに、今年度は女子の新入社員の採用は見送られたので、私は相変わらず下っ端だ。
「おはようございます。野上、さん……?」
あれよあれよという間に腕をガッチリ組まれ、女子更衣室に連れていかれた!?
デスクにいた遼平さんに朝の挨拶をする間も与えられず、彼の呆気にとられた顔に見送られた。
野上さん、力強いですって……。
この突然の連れ去りはもしかして、もう指輪に気が付かれた?
目ざとすぎですよ~。
逃げられない感じ。
デスクにカバンを置きたかったけど、先に制服に着替えよう。
更衣室に入ると、すぐに野上さんが私の右手を持ち上げ、しげしげと観察を始めた。
大きな目に、すべてを見通されているように見える。
「なっちゃん、素敵な指輪ね。これペリドット? もしかして彼氏から貰ったの?」
「あ、あ、あ、の、これは……そうです」
直球来た~!
ここで自分で買ったなんて嘘ついても絶対バレる。
今まで何も、ネックレスさえしてなかったのに、急にしてきたらおかしいもんね。
正直に言うしかないか。でも……。
「彼氏いないって言ってたのに、できたの? いつ? どこの誰?」
「えっと、少し前にお付き合いを始めまして、誰というのはすみませんがお話できないんです」
「え? ってことは社員の誰か?」
す、鋭い!
「まさか相原くん?」
「いいえ、ですからお話できないと……」
「じゃあ、誰だろ? うちにあとマシな独身男いたっけ?」
遼平さんはマシな方に入ってないんだ~!?
「まさか、逢坂主任ってことはないよね。あの人はねえ、アレだし」
うわ、焦ったけど、アレ扱い。アレってなんですか~?
「誰よ~、気になるじゃない」
つ、詰め寄られても。
「あの、本当にすみません。お話できるようになったら、最初にお伝えしますから」
「ふーん、約束よ」
野上さんは、掴んでいた私の右手をぶんぶんと勢いよく振ってから、放してくれた。
そして、制服に着替え始めると、なんだか視線を感じた。
な、何をじっと見ているんですか?
いくら女性同士とはいえ、恥ずかしいんですけど。
「よし」
野上さんがニタっとして、小さく口を動かした。
何が、よし?
「キスマークのひとつくらい付けてるかと思ったけど、見える所には無いわね」
げっ、それを探してたんですか~?
チェックされてたっ。
慌ててブラウスを羽織る。
昨日は何もされてなかったから良かった~。
言うのも恥ずかしいけど、遼平さんに厳重注意しておかなくちゃ。
私は肩より伸びた髪を、バレッタで留めた。
♢♢♢♢♢♢
会社の代表者会議は、3日後に、本社であるここの会議室で行われる。
私は出席しないが、第一営業課の資料作りのスタッフになり、遼平さんの指導を受けながら、2年先輩の柴崎さん、同期の相原くんと共に作り上げた。
代表者会議は、各支店の主任以上の社員が本社に集まり、経営目標や情報を共有する。
新規顧客の選別、アプローチのスキルや業務改善のヒントや仕事の考え方も学ぶ。
収支報告と今後の事業計画等も発表される。
遼平さんは、声がよく響くということで、ここ数年司会を任されているそうだ。
札幌支店からは、林田主任も来る予定らしい。
もう終わった恋の相手。
林田主任と会っても、私はもう心を乱したりはしない。
過去のことだから。
もう私の心の中の好きな人は遼平さんだけ。
彼の想いの詰まった指輪もある。
何の心配もしていなかった。
♢♢♢♢♢♢
デスクの上の電話が鳴って、いつものように受話器を取った。
「はい、オカモト商会でございます」
――津嶋さん?
この優しく穏やかな声音は……。
「……林田主任」
なぜか心臓がひどく跳ねて痛かった。
目線が遼平さんのデスクへ飛ぶ。
そうだ、遼平さんは外出中だった。
ひどく安堵している自分が……変だ。
もう割り切っていたのに。
――そう。よくわかってくれたね。津嶋さん、元気だった?
「は、はい」
なんだか息苦しい。
耳から入ってくる声が近くて、落ち着かない。
――聞いてるかどうかわからないけど、3日後の会議でそっちに行く予定なんだ。
「あ、はい、うかがっています」
受話器を持つ掌が汗ばんでくる。
――また会社ででもきみに会えたら嬉しいと思ってた。有馬部長いるかい?
「え? はい、少々お待ちください」
会話が終わったので、すぐに保留ボタンを押す。
動揺を隠すように席を立ち、有馬部長のデスクへ早い鼓動を抱えながら向かった。
「あ、有馬部長。札幌の林田主任から3番にお電話です」
「おう、そうか、ありがとう」
有馬部長は丸い顔でゆっくり私を見上げると、人当たりの良い笑顔を返してくれた。
私は逆に硬い表情をしていると思う。
なんで胸がざわついているんだろう。
もう林田主任のことは、何とも思ってないのに。
本当になんとも……。
「ただいま戻りました!!」
大きくて張りのある声。
遼平さんが事務所に入ってくるのが見えた。
りょ、遼平さん!!
「お帰りなさい」
自分のデスクに戻る途中、突っ立ったままの私。
目と目が合った。
遼平さんの目が一瞬鋭くなったのを感じた。
ここは、大人なんだからポーカーフェイス? それか自然に平然とした顔で笑うとか……。
笑うのは不自然?
私、どんな顔すれば大丈夫かな?
遼平さんは見逃さなかった。
私の心の動揺を。
「そうだ、津嶋、ちょっと。車からカタログを運ぶのを手伝ってくれるか?」
「……はい」
身体が、足が、おもりを引きずっているように重い。
この訳のわからない感情は何なのだろう。
地下の駐車場に、遼平さんの車は停めてある。
夏なのに地下は冷んやりしていた。
遼平さんは、足早に車に向かっている。
私は、その後ろを小走りでただついて行くだけだった。
車まで来ると、後部座席のドアを開けた遼平さんに腕を取られた。
「主任?」
「乗って」
遼平さんに後部座席に押し込められてしまう。
それから遼平さんは自分も乗り込むとドアを閉めた。
「奈由、どうした?」
なぜか、顔を向けられない。
後ろめたいことなんて、何もないのに。
林田主任に対してはもう好きな気持ちはないのに、声を聞いたら触れられた時のこととか次々よみがえって来るのはどうしてなんだろう。
私はもう遼平さんとお付き合いしているのに。
林田主任とのことなんか思い出したら、だめだよね。
「こっち向け。俺の方を見ろ。奈由?」
遼平さんの両方の掌が私の顔を包み込んできた。
「何があった?」
真剣に私を心配してくれている顔が、そこにある。
ごめんなさい、……私。
「……林田主任からの電話を受けてしまって、それで、胸がざわついて。違うんです! 林田主任の事がまだ好きとかじゃ全然ないんですけど、なんで色々思い出されるのか、わからないんです。私……すみません」
「なんだ、そうか。俺だって、正直言うと昔の彼女のことは、まあ、思い出すときはあるぞ。苦い思い出だがな。まあ、色々だ。林田の事を思い出したからって、謝るな。そんな顔で報告するなよ。俺を嫉妬で狂わせたいのか? 何も言う必要はない。無理して消さなくても良い。俺が上書きするだけだ! 俺の方がずっと好きだろ」
「はい、遼平さんの方が、遼平さんだけが好きです!」
これだけははっきり言える。
私が遼平さんの目を見据えてそう断言すると、遼平さんは少し眉を上げて驚いたような顔をした。
その後、目がスッと細められた。
「ならいい。林田に何か言われたのか?」
「いいえ、挨拶だけです」
「奈由、何も悩まなくて良い。おまえのことは誰にも渡さない。だから安心しろよ」
「……」
安心しろなんて……そんな優しく言われたら、なんだか嬉しくて泣きたくなるじゃないですか。
ざわついていた胸の中が静かになって、熱いものが溢れてくるのがわかる。
「そんな潤んだ目で俺を見るなよ。ここ、なんで会社なんだ、くそ~」
遼平さんは私の顔から手を離すと、ポカポカと自分の頭を叩き始めた。
その様子を見て、頬が緩んでしまった。
見ろって言ったり、見るなって言ったり。
遼平さんたら……。
「笑うな。切実な問題なんだぞ。俺がどうして外でおまえに触れないかわかってないな」
「え!?」
「途中で止める自信がないからだ……」
「外とプライベートとしっかり分けてらっしゃるからじゃ、ないんですか!?」
「俺がそんなに器用な人間だと思うか?」
「いいえ……? 確かに」
「おい!」
頭頂部にコツンと来るかと身構えたら撫でられた。
そして、軽く抱き寄せられた。
え!? 外ではこんなことしないんじゃ……。
でも、安心する。
抱きしめてくれる人がいるって、こんなに幸せなことなんだ。
「おまえが物足りなさそうな顔するから」
「私が?」
「会議が終わったら速攻でどろどろにとろかしてやるから、覚悟しておけよ」
えええ~!? それはちょっと、どういう……。
心臓に悪いです! ついていけませんっ!!
「なーんてな。スゲーそそる顔したな。ここは会社、俺は石だ、石だ、石だ」
またポカポカと、頭叩きすぎですって!
私だけに見せてくれる悪くて甘い顔。
私はこの人が好きで、この人に恋してる。
遼平さんは、さっと車から降りるとひとつ伸びをして、後部に回るとトランクを開けた。
「さあ、戻るぞ。奈、じゃなくて津嶋、ここにある紙袋を持ってくれ」
「はい!」
重そうな箱を抱えて振り向いた遼平さんは、いつもの少しいかつい逢坂主任の顔だった。
本当に荷物あったんですね。