2 初めての指輪
それから一週間、仕事の方は安定していたので、逢坂主任に送ってもらったり一緒に食事して帰ったりできるようになっていた。
あんなことがあってより親密な関係になったのに、逢坂主任は外ではいつもと変わらない。
帰りの車の中で、ふたりだけの密室状態の時も、仕事の話や趣味の話、家族の話が少し。
私には2歳年下の弟がいるが、主任は男3兄弟の2番目だそうだ。
「兄貴と弟とは、年末に実家で会うくらいで、普段はあまり連絡してないな。両親からも3人ともほっとかれてる。自分の嫁は自分で探せと言われてる」
主任は、淡々と話していたが、
私は、嫁、という言葉にドキッとする。
『責任はとる』
主任の言葉がよみがえって、身体が熱くなる。
主任は私がそばにいてもいつも通り。
きっと、脳の作りが違うんだ。
私は主任のそばにいると、始終ドキドキしまくりなのに。
♢♢♢♢♢♢
「相原! 津嶋!」
逢坂主任の張りのある声がした。
「は、はい!!」
逢坂主任に名前を呼ばれただけで、身体に電気が走る。
会社の人たちには私たちがお付き合いしているのは内緒だから、悟られてはだめなのに。
「前から言っていた代表者会議の第一用のデータと資料の原稿だ。明後日までにふたりで分担して仕上げてくれ。まあ、これも仕事のうちだと思ってやってくれな。会社の内部資料だから、勉強にもなるぞ」
主任が私と私の同期の相原くんを交互に見ながら普通に喋る。
そして、書類の束を相原くんのほうに渡した。
「わかりました」「はい」
「じゃあ、津嶋さん、オレのデスクで相談しよう」
「うん」
ふたりで頭を下げると、逢坂主任の席から離れた。
相原くんは、仕事もテキパキこなすし、頑張り屋で頼りになる同期だ。
黒い縁の眼鏡からのぞく目は、大概充血している。
「相原くん、また?」
「ははは、バレちゃった?」
「まさか、徹夜じゃないよね」
「さすがに、ね。居眠りすると主任に大目玉くらうから、ほどほどにしてるよ」
「そっか」
相原くんの充血の原因は趣味だ。彼の趣味、それは模型づくり。
今は寝る間を惜しんで、1/380スケールの姫路城を制作しているらしい。
以前完成させたという大型帆船の模型の写真をパソコンの壁紙にしている。
見せてもらった壁紙のそれは、精巧な作りで凄かった。
熱中すると、夜明けまで制作してしまうこともあるそうだ。
ん? なんだか気になって目を動かすと、書類の横から片目だけ覗かせる逢坂主任の姿が視界に。
「……」
こっち見てた?
そんなわけないよね。
♢♢♢♢♢♢
次の休みの日、逢坂主任に行きたいところがあるから付き合って欲しいと言われた。
そして連れてこられたのは、街中にある有名な……。
え? ここって。
宝石店だった!?
とてもひとりでは気軽に入れないような高級な雰囲気、憧れのブランドだ。
親友がここの腕時計をしていて、その価格を聞いて仰天した記憶がある。
「主任、あの……、こ、こ、ここですか?」
「そうだが。休みの日は主任て言うなって言ったろう?」
耳元で素早く囁かれた。
そうだった。癖はなかなか抜けない。
逢坂主任の名前、遼平さん。
遼平さん、遼平さん、慣れない。
背中を軽く押される感じで、お店の中へ入って行く。
「いらっしゃいませ」
目の前に、足を踏み入れたことのなかった煌びやかな空間が広がっていた。
なぜか全体的にキラキラした感じがするのは、ガラスケースが多いからか。
店員さんたちが、みなオシャレな制服を綺麗に着こなしていて、優雅な身のこなしで挨拶されたからか。
ここに来るって知っていれば、もう少しまともな洋服を選んだのに。
私は地味なオフホワイトのカーディガンに水色のフレアスカートだ。
胸元に辛うじてネックレスをしていて良かったが、このネックレスは……雑貨屋で買った可愛いだけが取り柄のガラス玉。
主任はそういえば、今日はきちんとジャケットを着ているじゃないですか!?
自分だけ~~ずるい!
「好きなのを選んでいいぞ。婚約指輪にしてもいい」
いつもの大きく響く声だった。
「え!?」
嘘でしょう!!!? は、早くないですか~~?
まだ大したお付き合いもしてないのに!
口の中の潤いが、全部一気に飛んだ。
すごく嬉しいは嬉しいですけど……。
「おめでとうございます!!」
そばに来ていた店員さんに声をかけられる。
え~!? ターゲットにされた?
「選ばせていただけるなんで、お幸せですね」
とてもにこやかに笑いかけられる。
は、恥ずかしい。
流されてる? 私。
店員さんの流れるような手招きで、婚約指輪のコーナーに誘導された。
私はカチコチで、自分がロボットのような歩き方をしているのがわかる。
「華奢な可愛らしい指をなさってますから、こちらのシンプルなダイヤモンドはいかがですか? 普段使いもできるように爪もあまり出ていないので、引っ掛かりにくいんですよ」
「お、いいな」
主任! なに感心してるんですか?
値段を見てギョッとなる。
ガラスケースの中は、見たことないゼロの数が並んでいる。
こんな高価なダイヤの指輪なんて~。
「し、主……り、遼平さん、わ、私、こ、、っちのぺ、ぺ、ペリドットが好きです!!」
となりのガラスケースの方へサササと移動して、ゼロの数を確認すると中の指輪に指をさす。
わわ、ガラスに指紋をつけてしまった!
「ぺ……?」
あ、主任、絶対わかってない顔してる。
「この、黄緑色の宝石です」
「ほう……」
「これ、8月の私の誕生石で、好きなんです!」
「そうか、じゃあ、それで」
え!?
「一括で」
主任が財布からカードを一瞬の迷いもなく出した。
「え~?」
指輪、ものの5分で決まった~?
主任、良いんですか~!?
あれよあれよという間に、
ガラスケースから出されたそれは、主任の手から私の左の薬指にすっと嵌められた。
こ、この指じゃないんじゃ……。
「サイズも9号で、ぴったりですね。お似合いです」
て、店員さん、さっきあなたあっちのダイヤの指輪を勧めていませんでしたっけ?
「そうだな。していったらどうだ?」
「え……も、うですか?」
な、なに?
「どうぞどうぞ、していらしてください」
え~!?
頭がこの展開に追いつかなくなってきた。
「おまえの親御さんにも挨拶しておかないとな?」
「ま、待ってください。まだ私……。挨拶ってなんですか?……」
私は指輪を外して、ベルベットのトレーに置くと、その場から逃げ出した。
「な、奈由!?」
なんだか、訳がわからなくなった。
「待てって!!!」
とろいしミュールの私はあっけないほどすぐに逢坂主任に捕まった。
「奈由、よく聞け。結婚の申し込みとか報告に行くわけじゃないぞ」
「主任……」
「おまえとの付き合いを認めてもらうだけだ。若くて可愛い大切な娘がどこのどいつと付き合ってるか親御さんにしてみれば心配だろう? でも、おまえが嫌ならいいんだ」
主任、そこまで私のことを真剣に思ってくれている。
なのに私は……。
「指輪も、いきなり悪かった。婚約指輪でも良いなんて、結婚の申し込みすらしてないのに、俺も先走り過ぎだよな。自分の気持ちだけ押し付けて……」
「あの、指輪はすごく嬉しかったんですけど、まだ付き合い始めて日も浅いし、あんな高価な指輪をいただいて良いのかなって思って。戸惑う気持ちが大きくて、パニックになって逃げ出したりして、ごめんなさい」
お店から勝手に出てくるなんて、逢坂主任の顔を潰してしまった。
あの指輪の支払いだって、もう済ませた後なのに。
「奈由。泣きそうな顔しないでくれ。俺、女の子の気持ちがわからないダメな奴だから」
「そんなことありません。私が、逢坂主任の気持ちにうまく応えられなくて」
「俺の方がガキみたいに浮かれちまって、余裕ないとこ見せて呆れてるよな」
「嬉しいです。遼平さんの心の中も私で一杯だってわかりましたから」
「指輪は俺の気持ちだから。受け取って欲しい。いつもして欲しいとは言わない。好きにしていい」
恥ずかしさをこらえながら宝石店に戻ると、店員さんが晴れやかな笑顔で、
「おかえりなさいませ」
と、出迎えてくれた。
もうこのお店には、二度と来られない、かも。
その日買ってもらった指輪は、私の部屋に帰ってから嵌めてもらった。
左手の薬指ではなく、右手の薬指。
遼平さんは今から結婚式をあげるかのような、真面目で穏やかな笑顔を向けてくれた。
そして、なぜか誓い? のキス?
こんなに喜んでくれるなら、私も嬉しい。
あなたが望むなら、ずっと嵌めています。
黄緑色の光輝く綺麗なペリドットの指輪。
男性から初めて貰ったプレゼント。
何もしないから、泊まってもいいかと言われて、断る理由もない。
ふたりで私の狭いベッドに横になった。
遼平さんは私の身体を労わって、遠慮してくれたみたいだった。
その割には、遼平さんの手はずいぶんと不穏な動きをしていたけど。
「奈由、照れるな。恥ずかしくて、あ、愛してるとか、言えねェ~」
「今、何気に言いましたよね」
「……人が照れてる時に冷静に突っ込むなよ。さっきまで落ち着きの無い声出してたくせに」
「りょ、遼平さん、もう、いじわる~!! 遼平さんが何もしないって言いながらくすぐるから」
グーで叩く仕草をしたら両方の手首を掴まれ、枕元に押さえつけられた。
「きゃッ!」
遼平さんの指が私の指に絡められた。
「きゃって、おまえ、なんだよ~、どこまで俺を追いつめる気だ……!?」
「すみません。指輪をしていたんでした。これで叩いたら怪我させちゃいますよね」
「だから、そうじゃね~って~。我慢だ忍耐だ、俺!!」
「遼平さん?」
「く~っ。耐えろ、抑えろ、堪えろ、持ちこたえろ……」
遼平さんが、力尽きたように私の鎖骨あたりに顔を埋めてきた。
なんですか? 唱えているその意味不明な念仏は?
「おまえが好きだ……。奈由」
「はい、私も遼平さんが好きです」
「その、愛してる方の好きだぞ」
ふふ、もう2度も言っちゃってるのに、なんて教えてあげたらまた恥ずかしい反撃をされるから止めておこう。
「はい、わかってます。私も、あ、い……してるの方の好きです」
うわー、小声になっちゃった。しかもたどたどしい。
日本人、どれだけ言い慣れてないんだろう!?
「……っ」
「え?」
遼平さん? 息、してます?
「お、れ、、、もう、しぬ……」
「どこか痛いんですか? 大丈夫ですか?」
私の鎖骨あたりに埋められていた遼平さんの顔が、胸元に移動してくる。
部屋着は着ていても、もぞもぞされると……。
「や、めっ……、くすぐったいです」
思わず身動ぎしてしまう。
「おまえが……可愛すぎて、しぬ」
な、なんですか~それ~
遼平さんは、なんだか少し苦しんでいたようだったけど、私を抱き枕のように抱え直すとすぐ寝息をたて始めた。
そして、私もその安らかな寝息を子守歌に、眠りについた。