1 初めてのお泊り
奈由と逢坂が心を通い合わせた少し後、
奈由の部屋に初めて逢坂が泊まるドキドキドタバタのお話です。
お楽しみください。
会社の上司の逢坂主任とお付き合いすることになってから、仕事が途轍もなく忙しくなっていた。
営業の頑張りが実を結び始め、売り上げラッシュだった。
主任には、残業帰りにタイミングが合うと車で送ってもらうくらいで、お互い休日は身体を休める日になっていて、デートすらまだしたことがない。
「じゃあな、今日もお疲れさん。明日はしっかり休めよ。後で電話する」
逢坂主任の大きな手に頭を撫でられた。
「はい、主任も、お疲れさまでした」
なんというか、主任は車の中での別れ際はあっさりしていた。
いかにも恋人たちがしそうなアレコレ?をしない。
されても困るけど……。
あの日、噛みつくようなキスをされたのが嘘みたい。
逢坂主任からは、特に部屋にあがりたいとも言われていない。
私はもっと一緒にいたいと思いながらも車から降りると、手を振りながら主任の車を見送った。
逢坂主任には職場でもプライベートでも見守られているし、何か物足りないような感じもするけど特に不満も不安も無く、幸せだった。
♢♢♢♢♢♢
そして、会社が軌道に乗り始め、極端な仕事の忙しさも収まってきた。
逢坂主任も明日明後日はまともに連休が取れるらしい。
仕事帰り、いつものように逢坂主任に車で送ってもらっていた。
今日も恋人らしい?会話ではなくて、新商品についての話をしながら、私のアパートの前まで来てしまった。
「お疲れさまでした。明日明後日はゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
「疲れたな。奈由のお母さんの梅ジュースが飲みたい」
逢坂主任は唐突にそんなことを言い出した。
ふたりだけの時は、逢坂主任は私のことを名前で呼ぶようになっていた。
「最近お疲れでしたものね。じゃあ、うちに寄って飲んでいかれます? そうだ、お裾分けしましょうか? 主任に気に入っていただけたのなら、来年はもっと作って送ってもらわなくちゃ……」
今日は逢坂主任ともう少し一緒にいられるんだ。
嬉しいかも。
嬉しい、という思いが先にたち、私はうっかりしてしまった。
「そうじゃない」
「え?」
「とぼけているのか?」
「私がですか?」
「そうだ」
「は?」
「俺たちはお互い好きだろう?」
「はい」
「お互い成人だ」
「?」
成人って、そうですけ……ど、え?
焼けるような熱のこもった真剣な目をむけられている気がする。
顔が、全身が自然と熱くなってきた。
そうだった。
部屋に誘うなら覚悟が必要だった~!
でも誘導したのは逢坂主任ですよね?
くすっと笑われた。
「おまえが見せるその素で驚く瞬間がたまらないな。その、可愛くて困らせたくなる」
「!?」
仕事では見たことないような流し目に甘い顔!
エアコンが効いている車内なのに、異様に汗ばんでしまうほどに緊張してきた。
私の勘が外れていなければ、主任は私の部屋で噛みつく以上のことをなさりたいと思ってる?
確かに覚悟しろとか、今日の所はとか、散々脅され……じゃなくて忠告?じゃなくて宣言?されていた気がするけど、ずっと毎日あっさり交際だったから完全に想定外だった。
何も考えずに部屋に誘ってしまった~!
どうする私!?
あっという間に、決心もつかないまま、逢坂主任を部屋に入れてしまっていた。
部屋の真ん中にある食卓の椅子に座ってもらった。
流し台の上で、たどたどしく梅ジュースを作り始めた。
緊張のあまり手元が震える。
この場に眠り薬があったら、入れてしまっていたかもしれない。
かきまぜるグラスに当たる氷とマドラーの音が心地よかった。
「奈由、いつまでかきまぜてるんだ?」
「っ!?」
声が近いと思ったら、逢坂主任がすぐ横にいた。
私のマドラーを回す右手に、少し汗ばんだ大きな左手が重なった。
そのまま優しく握られ、私の右手だけが逢坂主任の顔の近くへ持って行かれる。
「小さくて柔らかいな」
きゃ~!? く、唇で何を確認してるんです?
ひげ? なんだかチクチク。
「て、て、手は小さいんです。よく子どもの手みたいだってお友達から言われます」
「ふーん。確かに」
カランとグラスの中の氷が音をたてた。
「あ、ジュースどうぞ」
「ありがとう」
逢坂主任は、私の右手を離さない。
自分の空いている方の右手で、マドラーを流し台の上に置くと、グラスに入った梅ジュースをごくごくと飲む。
逞しさを感じる喉の動きを目で追っていた。
あっという間に空っぽになったグラスから氷の音がまた聞こえた。
「ほんとにうまいな。身体に力が戻った感じがする」
「それなら、良かったです」
「おまえを抱え上げるのも楽々だ」
「へ?」
きゃ~、なんでここでお姫さま抱っこ!?
思ったより不安定。
思わずしがみつく。
「しゅ、主任、重いでしょ?」
「いや。重くないぞ」
逢坂主任の息遣いと心臓の音が、私にドキドキと安心感をくれる。
「奈由を降ろす場所が無いな」
「……」
そ、そうですね。
ベッドのことをおっしゃっている?
私の部屋はフローリングで、ベッドは収納の上部に作り付けてある。
そこはカーテンで見えない。
ベッドに上がるには狭い梯子を登るようになっている。
逢坂主任が力持ちでも、私を抱えてはさすがに無理だと思う。
「そうか、先に風呂だよな」
ふ、ふ、風呂?
確かに汗をかいてますから、当然と言えば当然ですけど。
頭の中の思考回路が焼き切れそう!
お風呂から出たら、どんな格好をすれば良いんだろう?
普段着? それともパジャマ代わりの部屋着? まさかバスタオルだけとかはないよね。
主任はどうするんだろう。
「何も考えてなかったなあ。どうしたものか。コンビニで調達してくるか」
「あの、たまに泊まりに来る弟が置いている着替えをお貸ししましょうか。Tシャツと半ズボンならあります」
「弟がいるのか。じゃあ、ありがたく借りるよ。助かる。俺はコンビニに行って、弁当とか下着を買ってくる」
「一緒に行きますよ」
「いや、いい。ひとりで。鍵を貸してくれ。何か食べたいものあるか? あとは苦手な食べ物とか」
「ありません、大丈夫です。おまかせします」
「わかった。おまえは先に風呂でも入ってゆっくりしてろ」
「は、はい」
逢坂主任は結局私を椅子に降ろした。
部屋の鍵をカバンから出して渡すと、主任はさっと出かけてしまった。
急に静かになったいつもの部屋に、少しほっとする。
まったく慣れていない状況で緊張もマックスだった。
お弁当買ってきてくれるって言ってたけど、食欲無い。
おにぎりやサラダみたいな軽いものって言えばよかったかな。
もう汗だくだし、早くお風呂に入りたいというか、シャワー浴びたい。
そうだ、梅ジュースを飲もう。
もういいや。ここまで来たら、どうとでもなれ~
梅ジュースを喉に流し込むと、少し緊張がほぐれた。
シャワーを浴びて髪を乾かしていたら、鍵の開く音がしたので、出迎えた。
「お帰りなさい、主任!」
逢坂主任はポカンとしている。
「部屋を間違えたかと思った。ちょっと待て。やべー、短パン素足って……素顔、若いな。まだ、髪も半乾きじゃないか、、、その格好は俺への挑戦か? サービスか?」
帰ってきた逢坂主任が玄関に突っ立ったまま、私を上から下まで眺めて訳の分からないことをブツブツコメントしてるけど、どうしたんだろう?
「これ、部屋着ですが、ダメでしたか?」
私が着ているのは、少しモコモコしたパイル地の半袖膝上ズボンの上下セットの部屋着だ。
ソフトで着心地が良いのでお気に入りだった。
「いや、ダメじゃない!! いや、ダメだ。かなりまずい。そのふんわり加減がむしろ抜群に良いが俺がダメだ。俺の中の何かが崩壊しそうになる」
「はあ……」
「はあ、じゃない。危機を察知しろ。危機感を持て! 全く、なんて破壊力だ!!」
主任?
悶絶?
「奈由、俺は今はおまえの上司じゃないぞ」
「上司ですよね?」
「彼氏だ」
「あ、そういうことですか。それにしても、主任も弟と同じこと言いますね」
「何!?」
「部屋を間違えたかと思ったって」
「そっちかよ」
「そういえば彼氏ができたらこの部屋着を着てみろって。楽しいことが起こるって言われました」
と、話した途端、逢坂主任が眉をピクリと動かし絶句したのがわかった。
弟の話を鵜呑みにするんじゃなかった。
逢坂主任は全然楽しそうな顔してないし。
むしろ怖い顔してる~。
「おまえの弟、悪魔だな」
「?」
逢坂主任はおもむろに動き始めた。
靴を脱ぐと、両手に持ったコンビニの袋をガサガサ言わせながら部屋に上がってくる。
テーブルの上にドサッと袋を置くと、くるりと私の方に向いた。
その一連の動作がやたらと速かったので、私は自然と一歩後退りした。
と、同時にすぐに腕を掴まれた。
主任の目つき、何だかギラギラしてる。
「大丈夫、俺は冷静だ」
「!?」
その割には掴まれた手首が痛いんですけど!!
ち、血が止まります~!
「俺は汗臭い」
逢坂主任がそう言いながら私を睨んでる? なんで~!?
「お、お風呂どうぞ、そっちの扉です。私はシャワーにしましたけど、お湯入れますか?」
「シャワーでいい。じゃあ、風呂を借りる」
手が離されたので、私はほっとしてテーブルに用意していたタオル類と弟のTシャツとスウェットの半ズボンを主任に差し出した。
「弟はぶかぶかで着てたので、主任でも着られると思うんですけど」
「すまない、ありがとう」
「お風呂場の中に石鹸もシャンプーもありますから、お好きに使って下さいね」
「わかった」
少しクールダウンしたように見える主任は、お風呂場へ行った。
そうだ、何を買ってきてくれたのかな。テーブルに出しておこう。
か、かつ丼? 天丼? 親子丼? って、何ですか、このどんぶりトリオは!?
飲み物は、お茶にスポーツドリンク、ストレートティー、カフェオレかあ。
こっちの袋は?
あ、し、下着! 歯ブラシ、髭剃り? 箱?……。
バサッとコンビニの袋を閉じた。
そこにはリアルがあった。
見なかったことにしよう!
私はとりあえず飲み物を冷蔵庫に運んだ。
「奈由! コンビニの袋をそのまま取ってくれ! 持って入るの忘れた!!」
洗面所の中から、逢坂主任の声がした。
「は、はい!!」
え? もう出るの? 早っ!
洗面所のドアが少し開いている。
今は何も着ていらっしゃらない状態とか~?
中を見ないようにして、ドアの隙間からコンビニの袋を差し入れた。
「ありがとな」
「あの、脱いだワイシャツと下着は洗濯機の中に入れて下さい。明日洗いますから」
「悪いな、助かる」
「はい」
洗面所からドアの開く音がして、髪をガシガシふきながら、主任がでてきた。
「主任、ドライヤー使ってください」
主任の短めの髪が、洗い立てで少し長く見えて新鮮だった。
「いつも風呂上りは使ってない。すぐ乾くからな」
「そ、そうなんですか」
大雑把な人なんだ。弟の服の上下はちょうどぴったりみたいで、よかった。
なんだかスーツじゃないラフな格好の主任、普段より若く見える。
ぼーっと見すぎてしまった。
「あれ? 弁当先に食ってて良かったのに。腹減ってただろ?」
「いえ、なんだかその、あまり食欲がありません。梅ジュースは飲みました」
「そうか、適当に残っていた弁当買ったからな。食べられるの無かったか?……確かに俺も緊張しているが」
「そ、うめんでも茹で、ま、しょう、か?」
声が震えてしまった。
これじゃ私、びくびくしているように見えるかな。
「いや……今はいい」
ゆっくり距離を詰めてきた逢坂主任に、抱きしめられた。
「!!」
心臓の鼓動が尋常じゃないほど激しくなった。もう爆発しそう。
「無理やり部屋に上がり込んだみたいで悪かった。30にもなってこんなに胸が苦しくなるなんて思ってなかった」
え? 主任、苦しいの?
「奈由をこうやって腕の中に閉じ込めて安心したくて仕方がなかった。奈由の気持ちを疑っているわけじゃないぞ。言ってなかったが、来月代表会議で林田がこっちに来る。だからかな……落ち着かないのは」
そうだったんだ。
「仕事中は仕事に集中してるから平気なんだがな」
「主任……」
「突然だったしな。そんなに怯えるなよ。今日は帰るから」
「だ、だめ!! 帰らないでください」
私は広くて硬い逢坂主任の背中に手を回して、ぎゅっと抱きついた。
「奈由!?」
「林田主任のことなんて全然気にならないくらい、あなたの心を全部私で一杯にしたいです! このままじゃ帰しません!! 私の心の中はもう逢坂主任で埋め尽くされているんですから」
私を包んでいる逢坂主任の腕に力が入ったのがわかった。
私も負けじと力の限り主任の硬い胸に張り付いた。
「おまえ、知らねえぞ。どうなっても。……責任は取る」
そう告げてきた逢坂主任の表情はよく見えなかったけれど、なんだかすごく嬉しそうなのに泣きそうな顔をしていたと思う。
その夜、逢坂主任は私の部屋に泊まり、必然的に噛みつく以上のことがなされた。
実際に、噛みつかれてはいないけど……歯は立てられた気がする。