第五話 殺人と現場
人を殺す。
つまりそれは殺人を犯すということだ。それは、変わりの無い事実と言って良いだろう。それは法律を違反している。いや、人道を違反している。だから僕は止めなくてはいけない。だから僕は、止めるべきだった。
今思っても――後悔先に立たずとはよく言った物だと思う。あれを考えついた人間は天才だよ。生涯称えたって良い。嘘だけれど。
何ならそこで動かなかった僕を、批判するべきかもしれない。
そこで動こうとしなかった僕を、卑下するべきかもしれない。
いずれにせよ、僕は動けなかった。
いずれにせよ僕は、動こうとしなかった。
「……怖いんだろう?」
そして。
代弁するように、彼女は言った。
彼女は、僕の言葉を、思考を、想像を、理解していた。
だからこそ、すべてをわかりきったような笑みを浮かべて、彼女は階段を数段登る。
ここで説明が入るけれど、この研究棟の階段は途中までは手すりがついているから、入り口からも登っている姿はある程度確認出来る。そこからは研究室やらなんやらの部屋に遮られてしまうから確認出来ないのだけれど。
「怖いと思っているのだけれど、でも、何かを確認したいなら着いてくれば良い。私が何をしようとしているのか、私が何をしたくてここに居るのか、私が何をしようと思っているのか、教えて上げることができるかもしれないのだから」
えらく、抽象的に言った。
僕は、見なくてはならないと思った。
僕は、彼女を追いかけなくてはならないと思った。
彼女を追いかけないと――何か大事なものを失ってしまうような、そんな感覚がして。
気のせいかもしれないけれど、それは躊躇無く現れたとした獣に食い殺されるような不安。或いは、ただの偶然かもしれない、獣の咆哮。
どっちだっていい。
どっちだって構わない。
けれど今は――前に進むしか、僕の選択は残されていない。
だから僕は研究室を通り越して、階段を登っていく、そこで――。
「あ、やっほ。今日は君も遅くまでやってるんだ」
……僕は、今一番会いたくない相手に出会ってしまったような、そんな感じがする。
いや、出来ることなら誰にも会いたくなかった。
誰にも会おうとは思わなかった。
それは可能性の問題で。
それは可能性の段階で。
二階にも三階にも研究室はあるのだから、誰かが残っている可能性があることも、十分に考えられたはずなのに。
そのときの僕は、何故だかあまり考えようとしなかった。
何故だかあまり、気にも留めようとは思わなかった。
それは偶然の可能性?
それは必然の可能性?
どっちだっていい。
どっちだって構わない。
今は目の前に居る彼女のことを、どうにかして処理しなくてはならない。処理、という言い方には少々疑問が残るかもしれないけれど、都市伝説の『スマイリング・ヒューマン』が居るというのならば彼女に危害を加えて貰うわけには――。
「そういえばさっき、綺麗な人を見かけたのよね。私を見て、微笑みかけたんだ。……私、ついぼうっと見つめちゃって。何でかな、何でだったのかな?」
……遅かった。
既にスマイリング・ヒューマンと、彼女は――小野さんは、邂逅していた。
「……参ったな。会ってしまっていたのか」
僕は、気づけばそんな言葉を口に出していた。普通なら、自分の思考はあまり出さないはずだったのに、そのときは相当に動揺していたのだと思う。多分だけれど。
小野さんは僕の異変に気づいていたのか、首を傾げていたが、直ぐにそれを辞める。
そして持っていた鞄を肩に提げると、彼女は笑みを浮かべる。
「私は実験が一段落したから帰るけれど、君はまだ帰らないんだ?」
「……あー、うん。もう少ししたら終わると思う。そうしたら帰るよ。裏門のバスに合わせて帰るのがベストだしね」
それは間違ってなかった。僕は裏門の傍にあるバス停からバスに乗って帰る。そうすれば二十円安く駅までいけるのだ。二十円と高をくくってはいけない。十回乗れば二百円。二十回乗れば四百円。それで日替わり定食が食べられる。お小遣い制の僕にとっては少しでも倹約しなくてはならなかった。それが僕のちょっとしたルールであり、ちょっとした日常の仕組みだった。
それを聞いた小野さんは、ふうん、とだけ言って階段を降り始める。
そのとき、気づけば良かった。
彼女の背後に、スマイリング・ヒューマンが立っていることに。
「……あ、」
声も出なかった。
刹那、スマイリング・ヒューマンはその右手に持っていたナイフで思い切り小野さんの首を掻っ捌いた。