第十三話 快哉
それはある雨の降った日のことだった。折りたたみ傘は持ち合わせていたけれど、差すのは何だか面倒だなあと思いつつ、雨が降るのを待ちながら研究室でパソコンのキーボードをぱちぱちと叩いていた。
ちなみに、今書いている原稿は卒業論文のものではない。そう何度も論文など書いていられるか。今は、趣味で書いている小説の原稿を書いていた。
しかし、卒業論文以上に遅々として進まない原稿は、一度没にするかどうか悩んでいた。
ネタが浮かばない。はっきり言って、何も執筆出来る気配がしてこない。ネタが降ってでも来てくれれば直ぐに書けそうなものなのだけれど、案外そう簡単に降ってくれるはずもなく。
雨だれの音を聞きながら、時計を見ると時刻は午後九時を回っていた。誰も居ない研究室、誰も居ないはずの研究棟――なのに。
ひたり、ひたり、と何かの足音が聞こえた。
それは雨に濡れてしまったからか、水分を含んだような足音に近い音だった。
「……いったい、誰がこんな時間に歩いているんだ?」
研究棟から別の棟に移動するなら屋根のついた廊下を歩けばいいだけの話だし、仮に塗れると言っても今はそんなざあざあ降りでもない。どちらかといえば小雨の部類だ。だったらさっさと帰れば良いじゃないか、という話になるけれど、それは電気代などの節約に一役買っているのだ。
さて、問題は別にある。
その足音が徐々にこちらに近づいてきている、ということだ。これはいったい全体どういうことだ? まさかこの研究室のメンバー? ああ、一応補足しておくけれど、この研究室は研究棟の一番端に設置されているため、ここまで向かうには、屋根付き廊下を通ったとしてもここまで向かう人しか通らない通路を通る、という寸法だ。
そして、ぴたりと――足音が止まった。
僕は振り返らなかった。振り返りたくなかった。振り返ろうとは思わなかった。いずれにせよそれが正解だったのは不正解だったのかは、少なくともこの時点では分からなかったし知らなかったし理解しようとしなかった。結局の所、何も分からないなら、何も分からないで良い。それが僕のスタンスであり、スタンダードであったからだ。
「……何だ、誰も居ないのか」
そして、入ってきたのは、ずぶ濡れの彼女だった。
スマイリング・ヒューマン。
まさかこんなにも早く再会を果たすとは思っていなかった。快哉の気分だ。とはいっても素直に喜べない自分も居る。
スマイリング・ヒューマンがここに居るということは、誰かを殺す直前或いは直後、ということになる。それについては、きっと彼女に聞いたところではぐらかされてしまうのだろう。
そしてもう三度目の邂逅ともなると、驚くことはなかった。ただ単に、やってきたんだな、という物思いに耽ることしか出来なかった。
もし彼女が今僕を殺すというのなら、進んで受け入れるだろう。別に死に対する恐怖心がないというわけではない。簡単に言ってしまえば、今の僕にはスマイリング・ヒューマンに対する策が何一つとして浮かばないからである。
彼女は言った。
「それにしても、雨って素晴らしい天候とは思わないかしら?」
「そうかい? 僕はじめじめしていて、あまり好きではないけれど」
「雨が降った直後、或いは直前の香りが好きでね。いつもその匂いを嗅いでは、『ああ、もうすぐ雨が降るんだな』と思ったりするものだよ。それに雨は、音を消してくれる。血を洗い流してくれる」
「今、人を殺してきたのか?」
他愛もない会話だったが、徐々に物騒な会話になっていく。
そうして、スマイリング・ヒューマンは僕の質問に笑顔で頷いた。




