第九十話 笑顔の悪魔
「私は、宰相メゾ・クレール様にお仕えしております。私の言葉は宰相様のお言葉と考えていただいて問題ありません」
「宰相、メゾ・クレール殿ぉ?」
ハウオウルがカン高い声を出しながら驚いている。その様子に俺もビクっとなる。
「ノスヤは……知っていたかい?」
「ああ、うう、いや……」
「別に構わないよ。まあ、僕も詳しくは言っていなかったからね。父上や兄上には、宰相様の下で勉強中だと報告していたからね。きっと書生でもやっていると思っているのだろうね。まあ、間違いじゃないけれども」
兄のシーズは相変わらず不気味な笑みを湛えたまま、ピラピラと手を振る。俺にはその宰相とやらがどんな人物なのかがわからない。だが、ハウオウルの驚きぶりを見ていると、かなりの権力者であろうことは、何となくわかる。
俺はチラリとクレイリーファラーズに視線を向ける。こういうときに、宰相とはこんな人物ですよと情報を送ってこいよ。空気よめねぇな、この天巫女……。って、あの野郎、小さく舌打ちしやがった。
『メゾ・クレールはこの国の最高権力者です』
……わかっとるわい。やっと情報送ってきたなと思えば、そんな薄い内容かよ。もっと沢山の情報を送ってこいよ。
「どうしたんだい、ノスヤ? 怖い顔をして?」
「あ、いや、その……」
「……あの奴隷に、何かさせようとしていたのかい? フフフ。とてもいいことだとは思うけれど、今は僕の話を聞いてくれないかな?」
「え、う、はい……」
この兄貴は一体何を想像したのだろうか。聞いてみたい気もするが、それはパンドラの箱だと俺の本能が告げている。触らぬ神に祟りなしだ。触れないでおいた方がよさそうだ。
「私は宰相様から、今回の件についてすべての権限を与えられています。それゆえに、私の言葉は宰相様の言葉、ひいては国王陛下のお言葉と考えていただいて構いません」
随分と強気なことを言う人だ。一体何がそこまで……そう思いながら俺は隣に座るハウオウルに視線を向ける。だが彼は、唖然とした表情のまま固まっている。この先生がここまで驚くとは……。
『この男に絶対に逆らわないでください』
突然クレイリーファラーズの声が頭の中に響き渡る。予想していなかったことであるために、ビクっと体が反応してしまった。
『メゾ・クレールは、神を食した男と言われるほどのキレ者です。その彼の部下には10人の、彼に勝るとも劣らない程の頭脳を持った男たちがいると言われています。それぞれ、宰相の頭脳、目、耳、鼻、口、心臓、右腕、左腕、右足、左足と呼ばれています。おそらく、目の前に座る人は、10人衆の一人ではないかと思います。これらの部下の機嫌を損ねるのは、宰相の機嫌を損ねるのと同じ。国王は宰相に全幅の信頼を置いていると言われていますから、事実上、宰相とその部下たちがこの国を動かしていると言って過言ではありません。ですから、あなたの目の前の男には逆らわない方が賢明です』
……マジか。どうするんだろうか、この状況? そんな俺の狼狽ぶりには一切気に留めずに、彼はゆっくりと話し始めた。
「僕だって鬼じゃない。この国の民衆を餓死させたいなどとは思わない。実を言うとね、この村のすべての食料を渡せと勅命を出したのは、インダークに食糧を渡さないためだったのだよ」
「え? どういうことです?」
「インダークは密かに兵を集めていて、この村に侵攻する構えを見せていたんだ。当然、奴らの狙いはこの村の食料だ。そうなる前に、僕たちは食料のすべてを押さえて、王都に持ち帰ろうとした……そういうわけなんだ」
「そういうわけって……。もし、本当に村の食料を全部持って行っていたとしたら、この村はどうなっていたと思うのですか? 村人全員が餓死するか、戦いに巻き込まれて命を落とす……。どちらにせよ、死ぬしかないということじゃないですか?」
「ほう、ノスヤも考えるようになったんだね。これは兄の口から言うのも憚られるけれども、最悪の場合、ノスヤ、お前には死んでもらおうと思っていた」
背中がゾクリとした。この男は笑顔で俺を殺すつもりだったと言ったのだ。何という男だ。
「だが、村人たちについては話は別だ。ギルドの職員や冒険者たちと共に、我々と一緒に避難してもらうつもりでいた。もっとも、この村にどうしても残りたいというのであれば、その限りではなかったけれどね」
彼はそこまで話をして、ニコリと笑う。俺にはなぜ笑って話ができるのか、その神経が理解できない。
「ノスヤには気の毒だが、インダークの兵士をできるだけ足止めをしてもらうつもりでいたんだ。いや、お前が戦えないのはわかっていた。一旦、インダークの兵をこの村に入れ、そのすぐ後に王国軍を向かわせてインダークを討つつもりでいたのだ。勝手知ったる領内と村の中だ。勝算は十分にあった。問題はその戦いの渦中に巻き込まれたお前の命だ。最悪、斬られる可能性もあるし、捕虜としてインダークに連行される可能性もあった……」
俺の手がわずかに震えている。コイツは俺をバカにしていやがったのか? だとしたら……。
「と、思っていたんだが、今はその考えを改めたんだ。お前は優秀だ。バカじゃない。だからこそ、避難しようとしている人々の受け入れをお願いしているんだ。それに、インダークの侵攻も、おそらくはないだろうからね」
再び笑顔を浮かべる兄……。俺はその兄を呆然とした表情で眺め続けた……。




