第八十八話 ご無沙汰
「痛い痛い! 天巫女ちゃんのほっぺをつねるなんて、痣になったらどうするんですか!」
そんなことを言いながらクレイリーファラーズは俺の手を払いのける。彼女は両手でムニュムニュと頬を撫でながら、俺を睨みつけてきた。
「嫁入り前の大事な顔に傷をつけるなんて!」
「嫁に行く予定もないでしょうに」
「あなたなんかにわかってたまるものですか!」
そんな悪態をつきながら、彼女はスタスタと屋敷に向かって歩き出した。俺はその後ろをゆっくりと付いていく。森の中を進みながら、俺はこれから先のことを考えていた。
今のスピードで何千人分もの人々を収容する施設を作るのは、はっきり言って難しい。今回、500人が収容できる施設を作ってはみたが、かなりのMPを消費していた。まあ、一日寝れば回復はするのだろうが、俺の中には何らかの違和感が芽生えていた。
「ねえ、クレイリーファラーズさん」
俺の呼びかけに、彼女は怪訝そうな表情を浮かべながら振り向く。
「今思ってしまったんですけれど、この村に避難しようとしている人々を全員救うのって、難しくないですか? 本来はこの王国が救うべきじゃないですかね? そのために俺のところから食料を持っていったのでしょ?」
「まさしくその通りですが、それは無理ですね」
「……」
いつになく真剣な表情を浮かべているクレイリーファラーズ。彼女は残念そうな表情を浮かべながら、話を続ける。
「おそらく、この村から持ち出された食料は、貴族たちの手に渡っています。貴族たちに半分渡り、あとの半分は軍でしょうか。残念ながら庶民にはほぼ行き渡らないでしょうね」
「じゃあ、やっぱり避難してくる人は俺が面倒を見なきゃいけないってことですよね……」
「うーん、どうなのでしょうね」
「え?」
「私も最初、難民がこの村に押しかけてくると聞いたときは、村が大混乱になると予想していたのですよ。ですが、冷静になって考えてみますと、今の段階で難民は一人もこの村に来ていませんよね?」
「まあ、確かに」
「いくら村との境で王国軍が難民を押しとどめていると言っても、全員を止めることなどできないと思うのですよ。まさか全兵力をもって難民流出の防止に当たっているとは思えませんからね。逃げている人々は必死です。それはそうでしょう、命がかかっているのですから。ちょっとくらい武装した兵士がいても、何とかしてその網をかいくぐって脱出しようとするのが人間というものです」
「確かに……。穴を掘って壁の下を潜ったり、真冬の川を渡って逃げたりしたという話は聞いたことがあります」
「でしょ? あなたの変態お兄さんが帰ってから既に一週間以上経ちます。難民がいる場所には馬で一日飛ばせば着いてしまう距離です。いくらなんでも難民の一人や二人、この村にやって来てもよさそうなものです。それが今、この村から離れていっていると言うではありませんか。ちょっとおかしいと思いませんか?」
「ま……まあ、確かに」
「ですから、あの長屋はそのままにして、少し様子を見た方がいいかもしれませんね」
「そう……ですね。しばらく鳥たちに難民の様子を観察させましょうか?」
「え~面倒くさいです」
「なんでやねん!」
俺は思わずクレイリーファラーズに突っ込みを入れる。この天巫女は真面目なのか不真面目なのかよくわからない。そんな話をしていると、屋敷が見えてきた。
勝手口に通じる階段をのぼりながら、この村が平和であることを改めて感じる。村人たちが諍いを起こすことはなく、むしろ、皆が助け合いながら日々の生活を送っている。食糧も豊富にあり、飢餓とは無縁の世界だ。畑では今、麦の種まきで多くの村人たちが汗を流している。根拠はないが、おそらく麦は順調に成長して、収穫のときに皆総出で刈り取ることになるだろう。まさかこの国で飢饉が起こり、国中の人々が家を捨てて逃げているということが、俺にとても信じられなかった。そんなことを考えていると、ちょうど階段を登り切ったところにワオンの姿を見つけた。俺は彼女に向けて手を振る。すると彼女はピョンと飛び跳ねるようにして俺たちの所に降りてきた。
「きゅーきゅー」
「どうしたワオン」
「ご領主様……」
声のする方向に視線を移すと、先程ワオンがいたところにレークが立っていた。彼女は不安そうな表情を浮かべながら、俺たちの所に近づいて来る。
「どうしたんだ?」
「あの……お客様がお見えになっています」
「客?」
「今……ハウオウル先生が対応してくださっています」
「先生が?」
「つい先ほど、お見えになられたのです。昼食を持ってきたと言っておられました。そのすぐ後に、お客様がお見えになったのです」
「誰だい、それは?」
「そんなところでコソコソと話をしていないで、上がってきたらどうだい? 自分の屋敷だろう?」
聞き覚えのある男性の声が聞こえた。思わず視線を向けると、そこには予想もしなかった人物が立っていた。
何とそこには、兄であるシーズの姿があった……。




