第七十九話 フェルディナント
兄のシーズは、ごく短い挨拶をしただけで、淡々と馬車に乗り込んだ。そして、すぐに馬車は走り出し、すぐに森の中に消えていった。
本当にこれから大丈夫なのだろうか? 勅使と兄のおもてなしが終わった安堵感より、不安の方が先に湧き上がってきている。すぐ隣のインダーク王国が侵攻してくるという話……。俺たちはどうすればいいのかという不安……。何かあれば実家を頼れという兄の言葉……。とはいえ、実家の支援はあまりアテにはできなさそうだ。それに、あの兄は全く腹が読めない。しかも、クレイリーファラーズに向かって、君の笑顔はステキ……たぶん泣き叫ぶ瞳はもっとキレイ……などと物騒な言葉を吐いていた。怖い……。相対しているときにはあまり感じなかったが、いざ一人になると、あの兄の何とも言えない恐ろしさがジワジワと湧き上がってくる。
「はぁぁぁぁ~」
俺は全ての不安を吐き出すように、深いため息をついた。
「きゅぅぅぅぅ」
抱っこされていたワオンが、心配そうな顔をして俺を眺めている。
「ワオン、ご苦労様。もう終わったよ。大人しくしていて、偉かったね」
そう言って俺は彼女を下ろす。
「ご領主、ご苦労じゃったな。まあ、勅使の対応としては上々だったぞい」
隣でハウオウルが満面の笑みを見せている。俺はそれを見て再びため息をつく。
「勅使は何とか追い返しましたが、知らなきゃよかったことも多くあって、何だか心が重いですよ……」
そう言ってため息をつく俺に、ハウオウルは遠くを眺めながら口を開いた。
「ご領主……お前さんは、兄のシーズ殿から聞いた話で、この村が侵略に晒されるのではないか、王都から再び無理難題を吹っ掛けられはしないかと思っておいでじゃな?」
「あー王都から無理難題を言ってくる可能性もありますね。それは忘れていました」
「まあ、それはどっちでもええことじゃ。ご領主、これはあくまで儂の推測じゃが、おそらくはご領主が思っていることは実際には起こらんじゃろうな」
「え? どういうことです?」
「考えてもみなされ。このラッツ村は、神の加護を受けておる。……いや、受けておろうとおるまいと、それはどちらでもよいことじゃ。要は、あの公爵とシーズ殿にそう思わせることができた。それが大きな成果じゃ。それにそのワオンじゃ。この仔がいると思わせたことも、大きな成果じゃな」
「先生……もう少し、わかるように説明してください」
「この村では、タンラの実が獲れる。あの果実は暖かい場所でしか獲れぬもの。それが冬の寒さが厳しいこの村で獲れるのじゃ。それにあの巨木……。通常では有り得んことがこの村で起こっておるのじゃ。これを神の仕業ではないかと思わせると、国王らはこの村に無理難題を言うことはできなくなる。もしこの村が滅べば、神を冒涜したことになるからの。天罰が下るかもしれぬ……そう思わせておけば、王都はこの村を粗略には扱えぬ。それに、このワオン……。この仔竜が飢え死ぬことにでもなれば、この仔の母竜が何をするかわからん。そうなれば……この村から無理に食料を奪うなどということはできなくなるじゃろう」
「はぁぁ……そういうものですかね」
「おそらく、あの勅命を下したのは国王ではあるまい。おそらく国王の側近の誰かの仕業じゃろう。公爵は何も知らずただ、勅書を携えてきただけの男じゃ。それよりもむしろ、ご領主の兄上、あのシーズ殿じゃ。あのお方は、何やら油断ならぬ方じゃと感じる。何せ、勅書を額面通り解釈せず、拡大解釈するように勧めた儂の提案を、あのお方は即座に実行された……。単なる貴族の次男坊、三男坊ではああはいくまいて。自分の身が危なくなるからの。それを即座に決断するとは、何かあったときに、自分の身が危なくないようにできる位置にいるということじゃ。あの兄上には、あまり逆らわぬほうが良いかもしれぬな。じゃが、あのシーズ殿にこの村は油断ならぬと思わせたのじゃ。重畳じゃ」
「しかし、隣国からの侵攻が……」
「いや、インダーク帝国の連中もバカではない。この国の王都がラッツ村の扱いを変えれば、間違いなく奴らもそれに気が付く。そうなれば奴らも調べるじゃろう。これまでとは扱いが違う理由を。この村のことを奴らが知れば、おいそれと攻めてくることはできまいて。奴らとて、天罰は怖いし、竜に蹂躙されるのは嫌じゃろう」
「そんなにうまくいくものですかね……」
「フフフ……まあ、見ていなされ」
ハウオウルはにこやかな笑みを崩すことなく、ゆっくりと頷いている。俺は黙って彼の横顔を眺めるしかなかった。
「恐れ入ります……お屋敷に……お戻りいただけませんか?」
その声で俺たちは振り返る。そこには困った表情を浮かべたミークの姿があった。俺はハウオウルと顔を見合わせていたが、やがて無言で屋敷へと向かった。
「座って……下さい」
屋敷に入ると、ダイニングのテーブルにクレイリーファラーズが座っていた。目に涙をいっぱいに溜め、口を真一文字に結んでいて、その口の端がピクピクと動いている。明らかに怒りを湛えた表情だ。俺はゆっくりと彼女の前に座る。ハウオウルは俺の隣で立ったままだ。
「私は……汚されました。胸を揉まれ、尻を触られ、体中をあの汚い手が這い廻り、挙句に……私の下着を……下着を晒されました。女性に対してこんな……こんな仕打ちは……。下手をすれば手籠めにされていたかもしれません。それに……」
「お嬢ちゃん、それはない。もし公爵がお嬢ちゃんを手籠めにしようとしたときは、儂とご領主が」
「ジジイ、黙ってろよ!!」
ものすごい絶叫が響き渡る。余りの剣幕に俺は固まってしまう。クレイリーファラーズは肩で息をしていたが、やがてその目からは涙が溢れてきた。
「ヒック……ヒック……ヒック……私は、汚れてしまった……フェルディナント……あなたと結ばれる前に私は汚れてしまった……フェルディナント……もうあなたとは、あなたとは……」
そう言って彼女は、両目を押さえて泣き崩れた。




