第七十七話 ノスヤ・ヒーム・ユーティン
シーズは俺の顔を眺めながら、優し気な微笑みを浮かべる。そして、ハウオウルに視線を向けながら、落ち着いた声で話し始めた。
ノスヤ・ヒーム・ユーティンは、ユーティン子爵家の五男として生まれた。子供の頃から実に不器用で、何をするにも兄弟の中で一番出来が悪かったのだという。本来貴族の子弟は、13歳から15歳になるまでの三年間、王都の貴族向けの学校に入るのが一般的で、しかもその学校は全寮制なのだという。だが、このノスヤ君はあまりにも勉強ができなかったため、父や母は学校に入れるのをあきらめて、成人するまでの間、彼はひたすら家庭教師を招いて学問に励んだのだという。性格は無口で大人しく、自分の考えを主張することもほとんどない。大抵は、両親や乳母の言うことを素直に聞く男だったらしい。
こうした性格は、長男であれば重宝されるが、残念ながらノスヤ君は五男だった。次男以下の男の子たちは、自分で家を立てるくらいに活躍するか、どこかの貴族の養子や婿養子に入る他はない。と、なれば、次男以下の男たちに求められるのは、頭脳もしくは武芸に関する優秀さか、見栄えの良さというものなのだが、ノスヤ君はそのどちらも持ち合わせていなかった。結局彼は、養子の先も、婿養子の先も見つけることができずに、ただ淡々と実家で無為の日々を送っていたのだという。
そんな彼に、父親は突然、このラッツ村の領主となり、別家させると命令を下した。別家とは自分で領地を持ち、新しい家を立てることになる。これは一般的には、相当に優秀な子供か、諸事情により長男が家を継げなかった場合などに見られるのだそうで、言ってみれば、相当に珍しい事柄なのだそうだ。ノスヤ君は、領国経営の手腕が認められれば爵位がもらえる可能性があり、励めば励んだだけの見返りがもらえる地位に付けるということになる。まさに青天の霹靂のような出来事だったが、彼は喜ぶこともなく、悲しむこともなく、ただ粛々とこの村に向かって出発したのだという。
「ふ~む。ということは、このノスヤ様は別家されたことを妬まれたために、村に入る前に襲われた、ということかの?」
「いや、おそらく、襲われたのではなくて、供の者たちがノスヤを殺そうとしたのだろう」
「え?」
兄の予想外の言葉に俺は言葉を失う。いい子ちゃんでいたノスヤ君が、なぜ家来たちに殺されなければならなかったのだろうか。そういえば、殺されたにしては、別に身ぐるみはがされていたわけでもなかったし、俺がユーティン家の五男であり、ラッツ村の領主に任ずるという命令書も奪われてはいなかった。もし殺すのであれば、着ている服を剥いだり、俺の身元が分からないようにしたりする細工をしそうなものだが、そうした様子は一切見えなかった。驚きのあまり固まる俺をシーズは横目で見ながら、さらに言葉を続けた。
「おそらく皆、このラッツ村に来るのが嫌だったのだろう」
「何故じゃ? このご領主には未来があるではないか。励めば励んだだけのことがある。にもかかわらずそのご領主の命を奪って逃げるとは……失礼ながら、ユーティン家に仕える方々は、一体どうなっているのじゃ」
珍しくハウオウルが怒気を含んだ声で話している。そんな彼の様子を兄はじっと聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「無理もありません。ご老人は、このラッツ村はどういう場所か、ご存知ですか?」
「どういう場所、とは? お言葉の意味がよくわからぬな」
「このラッツ村は、言わば捨て砦なのです」
「捨て砦?」
「ご老人、隣国のインダーク帝国が我が国に攻めてくれば、ノスヤは間違いなく死にます」
「お待ちなされ。インダーク帝国とリリレイス王国とは停戦中のはずじゃ。攻めてきたら、と言われたが、そのようなことが……」
「数年前から、インダーク帝国は我が国に侵攻する機会を窺っておりました。今回、我が国の農作物に大きな打撃を与えたのも、おそらくインダーク帝国の仕業でしょう。遠からず、あの国は我が国に侵攻して来ます。そうなれば、国境を接しているこの村は、瞬く間にインダークの軍勢で埋まります」
「そんな……」
思わず声を上げた俺に、シーズはゆっくりと視線を俺に向ける。
「ノスヤ、お前は知っているかい? インダーク軍の規模を。約十五万だ。この村は砦のような作りだが、十五万もの兵は受けきれない。言ってみればこの村は、少しでもリリレイス王国に侵攻してくるのを抑えるための、時間稼ぎなのだよ」
「じゃが、なぜ、そんな危険な村をユーティン家が守らねばならぬのじゃな?」
「いい質問です。そもそも、我がユーティン家が子爵に任じられたのは、今から300年ほど前になります。そのときの当主は、侵攻してくる約8万とも言われる敵に、わずか1000人で城に立てこもり、ひと月ほど持ちこたえた末に討たれたのです。その間に王国は兵を整えることができ、最終的に敵を駆逐することができました。当時の王は、その功績をお認め下さり、亡き当主の息子に、子爵の爵位を与えたのです。それが、ユーティン家の始まりです。そして30年前、インダーク帝国との停戦協定が結ばれた後、先王は故事に倣って、国境を接するこのラッツ村をユーティン家にお任せになったのです」
「何と……そのような……」
「だから、こう言っては何だが……ノスヤ。あんな理不尽な勅命が出されたのも、どうせ蹂躙されてしまう村なのだから、その前に根こそぎ収穫物を奪ってしまおうと王国の者が考えたためだと私は思っている。そして……父上も、この村に関してはほぼ、あきらめている」
「はぁぁぁぁ……」
俺は思わず声を上げた。ちょっと待て、待ってくれ。一度頭の中を整理しよう。そう考えて俺はゆっくりと深呼吸をする。だが、その俺の振る舞いも、兄のシーズからは意外な行動に見えたらしく、彼は驚いたような表情で俺を眺めていた……。




