第六話 目覚め
目が覚めた。昨日感じた頭痛はほとんど感じない。ゆっくりとベッドから降りて立ち上がってみる。ちょっとフラフラするが、歩くのには問題がない。ドアを開けると、恰幅のいい女性の後姿が見えた。どうやらルカのようだ。
彼女は大きな鍋の前に立って、中身をゆっくりとかき混ぜている。どうやらシチューか何かを作っているようだ。俺には全く気付いていない。参ったな……。彼女が振り返るまでここで突っ立っていようか?
いや、俺にはそうも言っていられない事情があった。そう、トイレだ。トイレに行きたい。結構限界が近づいているのだ。このままでは、粗相をしてしまう。
仕方がないので、勇気を出して話しかけることにする。
「お……おはよう、ございます」
……無視ですか? なぜ、こちらを振り返らないんだ? もしかして言葉が通じてない? いや、昨日喋ったよね? あの……ちょっと俺自身が、ヤバイ状況にあるんだ……。俺は先ほどよりも声を張って、もう一度話しかけてみる。
「おはようございますっ!」
「うわぁ!」
叫び声にも似た声でルカは振り返る。すまん、ちょっと声を張りすぎた。彼女は目を丸くして俺を見ていたが、やがて、ホッとしたような顔になり、俺の許に近づいて来た。
「お目ざめになられましたか、ノスヤ様。お体の具合はいかがですか?」
「ああ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そんな、私にお気遣いは無用です」
「あの……すみませんが、トイレ……は?」
「トイレ?」
「あの……ちょっと、もよおして……」
「あ、ああ。用足しですか? でしたら、外で……」
「外?」
促されるようにして外に出てみる。何だか古い外国映画のような街並みだ。ここは小高い丘の上のようで、ふと視線を移せば地平線の果てまで農地が広がっている。そんなことを考えていると、背中越しにルカの声が聞こえてきた。
「間に合わないのなら、裏の森でやっちゃってください」
ふと見ると、家の裏手には森が広がっている。まさか、「野」でやれというのか? しかし、背に腹は代えられない。俺は小走りに少し離れた森に向かう。そして、周囲に誰も居ないことを確認して、しゃがみ込んだ。
コトは一瞬で終わった。だが、最後に処理をするものがない。そういえば、昔は何かの葉っぱで代用したということを思い出した。ひきこもり生活中、ひたすらネットを見まくっていたのは無駄ではなかった。俺はキョロキョロと代用品になるものを探す。
……それはすぐに見つかった。大きな、しかも朝露が美しく乗った葉っぱだ。これならいい感じでイケルかもしれない。俺はその葉っぱを注意深く取り、そして処理を行う。
初めての野戦はあけっけなく終わった。俺は素早く戦場から離脱を図り、ルカのいる家に戻った。
中に入ると、テーブルの上にパンとスープが並べられていた。俺のために朝食を作ってくれていたようだ。何だか悪い気がするが、ここはその厚意に甘えることにする。パンは固く、スープもちょっと塩辛かったが、ジャガイモのようなものと、ニンジンのような野菜がたくさん入っていた。あと、種類はわからないが肉も入っていて、なかなか美味しい、シチューのようなスープだった。
朝食を食べながら、ルカが亭主は仕事に出かけており、もうすぐ戻るころなのだという。かなり朝早い時間から仕事に出かけているようだ。そんな話を聞いていると、家の外から突然、ドン、ドドン、と何かを打ち付けるような音がする。何事かと思っていると、ドアが開き、ティーエンが入ってきた。彼は俺の姿を見ると、ちょっと驚いたような表情を浮かべたが、やがていつもの表情に戻り、空いている椅子に腰かけながら、ゆっくりと俺に話しかけた。
「お加減は、いいようですね」
「食事もきちんと食べられているし、大丈夫じゃないかね」
彼はルカの言葉に頷きながら、再び俺に向かって口を開く。
「ご気分はいかがですか?」
「ええ、大丈夫です。歩けますし、走れますし、特に問題はないと思います」
「そうですか。それはよかった……。では、朝食が終わったら、村長のクレド殿の所にご案内しましょうか?」
「そうですね。お願いします」
いきなり全く知らない世界に転移してきて、何が何だかわからないが、もうなるようにしかならないなと、俺は半分あきらめにも似た感覚になっていた。元々、何の未来もない人生だったのが、リセットされたようなものなのだ。どう考えても、元の世界には戻れそうもないし、戻りたいとも思わない。この世界で、せめて前の人生よりもいい人生を送れたら……。俺はそんなことを考えていた。
朝食が終わると、ルカが大きな布袋を持ってきた。どうやら俺の荷物らしい。森で倒れていた俺を保護しようとしたら、傍らにこの布袋が落ちていたらしい。これが結構重い。中を見てみると、小さな小袋がいくつも中に収められていた。そして、刀の柄のような、一本の棒が目に入った。俺はそれを取り出して見る。
「あれ? そんなものが入っていましたか? どうりで重いはずだわ」
ルカが思わず声を上げる。彼女はこの袋を見つけたとき、中身を確認しようと袋を開けたそうなのだが、そのときは中には何も入っていなかったのだそうだ。とはいえ、ただの布の袋なのに、かなりの重さがある。不思議な袋だと思っていたらしいのだが、俺の手にある黒い棒のような柄を見て、ひとりで納得している。
この柄、鉄のような色をしていて、一見重そうに見えるが、実はとても軽いものだ。ただ、これが何なのか俺にも見当がつかない。すこしの間これを眺めていたが、俺は無言でそれを袋の中に入れる。
「では、参りましょうか」
ティーエンの声に促されるようにして俺は立ち上がる。そして、布袋を小脇に抱えながら俺は村長の家に向かって歩き出した。