第三百七十九話 そう、せい
何がそんなに可笑しいのだろうか。王女は相変わらず笑い続けている。しかも、その笑い方が尋常ではない。気が狂れたのではないかと思う程の大爆笑ぶりだ。
ベッドを覆うカーテンの中から、ドタン、バタンと音が聞こえる。どうやら、ベッドの上で笑い転げているようだ。
「姫様。姫様っ!」
絶叫にも似た声が聞こえたかと思うと、先ほどの女性が入室してきた。足早にベッドに向かうと、無造作にカーテンを開けて中に入っていった。
姫様、姫様と明らかに怒りをにじませた、いや、怒声と称して差し支えない大声がベッドの中から聞こえて、無意識のうちに体が震える。俺は、とんでもないところに来てしまったのだ。触れてはならぬ人に触れてしまったのだと言う思いが心の中から湧き上がってくる。
女性が中から出てきた。明らかに怒っている。彼女は再びカーテンの形を整えると、スッと一礼して再び退室していった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように周囲が静まり返る。俺はどうしてよいのかがわからず、その場に立ち尽くすしかなかった。
どれほど時間が経ったのだろうか。実際は数分だったと思うが、俺には一時間くらいに感じられた。不気味なほどに静かな部屋の中で、物音ひとつしない中で、俺の呼吸する音だけが妙によく聞こえていた。
突然、カーテンの仕切りの部分に、にゅっと手が出てきた。しかも、指が異常に長い。一体何だと思っていると、カーテンとカーテンの間から長い髪の毛がヌッと出てきた。
それはまさに有名なホラー映画のそれのようだった。長い指だと思っていたのは、爪だった。異常に長く伸びた爪がカーテンの布を掴んでいた。
「どうするのじゃ」
声と共に髪の毛が揺れる。それと共に、異臭が鼻を突いた。これは……もしかして、長い間、風呂に入っていなかったのか……。
動揺しながらも俺は何とか言葉を絞り出そうとする。だが、息を吐き出すだけで、言葉が出てこない。
「そなたは、村に来い、と言うた。どうやって、村に、行く?」
「ばっ、馬車で……」
「……」
長い前髪で顔が隠れてしまっているが、じっとこちらを見ているのは気配で何となくわかる。ここで目を逸らせてはダメだと直感的に思った俺は、じっと彼女の顔を見つめる。
「……そう、せよ」
王女はそう言うと、再びカーテンの中に隠れた。俺は状況が呑み込めず、その場に立ち尽くす。
そのとき、部屋の扉がノックされ、俺を案内したあの女性が入室してきた。彼女はドアノブを持ったまま俺に向かってスッと腰をかがめる。どうやら、早く出て行けと言われているようだ。俺は扉に向かって歩を進めた。
たった数歩の距離が、とんでもなく長い距離に感じた。何だか、足が自分の足でないような感覚を覚えた。
やっとのことで外に出る。気がつくと足がガタガタと震えていた。ああ、歩きにくかったのはこのせいかと妙に納得してしまう。
女性はすでに廊下に通じる扉の所に立ってこちらを眺めている。早く出て行けと言わんばかりの様子だ。
「姫様は、何と言われました?」
俺が部屋を出て、扉を閉めると同時に女性が口を開いた。初めて話しかけられた。一切感情はこもっていないが、よく聞いてみると、若い女性の声だ。もしかして、実は年齢は俺とそう変わらないのかもしれない。
そんなことを考えながら俺は女性に向き直る。
「そう、せよと言われました」
俺の言葉に女性は相変わらず無表情だ。何か反応して欲しいなと思っていると彼女はゆっくりと頭を下げ、そして踵を返すと、再び無言のまま歩き出した。結局、彼女はそれ以降一切言葉を発することはなかった。
後宮に通じる扉を出ると、鎧を装備した二人の兵士が待っていた。ご案内しますと言って俺に背を向けると、二人はゆっくりと歩き出した。
カシャカシャと鉄が触れ合う音がする。これからシーズの許に案内されるのだ。一体ヤツは何を言ってくるだろうか。王女の「そうせい」の意味を聞かれるのは間違いない。つまりは、ラッツ村に王女を連れて行くと言うことだ。
シーズは許可しないだろう。それどころか、フンと鼻で笑うような気がする。その後は色々と難癖をつけられるのだ。例えば……。
「……ツ」
考え事をしていたら、目の前の兵士たちの動きが止まった。あやうく彼らにぶつかりそうになる。見ると、目の前には大きな扉――後宮の扉とは違い、横に広い扉。後宮のそれは縦に長い扉だ――があり、その両脇には同じように鎧兜を装備した兵士が控えていた。
俺を扇動してきた兵士が、その警備兵の一人に何やら話しかけている。程なくして、扉が開かれて、四名の兵士たちは俺に向かってスッと腰を折った。
入室すると、目の前が壁だった。てっきり部屋だと思っていたのだが、そこは廊下で、左右が突き当りになっていて、その先も続いているように見える。一体どっちに進めばいいのかと悩んでいると、ふと、聞き覚えるある声が聞こえた。
「こっちだ」
見ると、突き当りのところにシーズが立っていて、俺を手招きしている。彼は俺と目が合うと、そのまま廊下の先に消えてしまった。慌てて彼の後を追いかける。
「……え?」
目の前に現れた光景に、俺は言葉を失った……。




