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第三百七十四話 絶句

兵士がスッと一礼して、一歩下がった。女性はクルリと踵を返すと、元来た小さな扉から中に入ってしまった。兵士がその扉に向かって右手を差し出している。どうやら、あの女性について行けと言っているのがわかった。


中に入ると、これまで歩いてきた廊下や部屋などとは雰囲気が全く違っていた。言ってみれば、空気が違うと言う感じだ。何と言うか、空気が澄んでいる。埃っぽい感じが全くしない。そのためか、扉の向こうとこちらでは、匂いが全然違っている。


目の前に歩く女性からは、香水をつけているのだろうか、いい香りがする。ただし、これもちょっと研ぎ澄まされた感じのする香りだ。男なので、香水のことはよくわからないが、世間や街中では出会わない香りだ。その……何と言うか、一流企業のメチャメチャ仕事のできる秘書さんが付けているようなイメージだ。


背筋をピンと伸ばして、こちらを一切振り返らずに、ゆっくりと歩いている。俺はどちらかとドタドタという音をさせて歩いている。やはり、こういうところに来ることもあるだろうから、しっかりマナーの勉強をしなきゃならないな、などと思いながら後をついていく。


「……ツ!」


廊下の角を曲がったところで、女性がこちらを向いて立っていた。全く予想していなかったために、思わず体が震える。


「この先が、姫様のお部屋となります。くれぐれも、粗相のないように」


……高圧的な物言いだ。というか、完全に俺を拒んでいる様子だ。それはそうだろう。俺が姫に会いたいと言っておいて何だが、この女性にとって今の状況は、誰にも触れて欲しくない、ということなのだろう。宰相に言われて仕方がなく俺に応対をしているが、心の中では、早く帰ってくれと思っているに違いない。これは、ひきこもっていたときの俺の両親と同じ雰囲気だ。


ひきこもっているときは、親戚連中などが俺の様子を心配してきた。俺はその人たちに会いたくなかった、というより、会わせる顔がなかったので会う気はなかったのだが、両親も、俺のことに触れてくれるなと言わんばかりに、大丈夫を繰り返していた。その両親の言葉のトーンとこの女性のトーンが全く一緒だ。俺は、彼女にかける言葉が見つからずに、ただ、頷くことしかできなかった。


再び踵を返した女性は、先ほどと同じように背筋をしゃんと伸ばして歩き始めた。


その部屋は、廊下の角を曲がると、突き当りにあった。女性は静かに扉をノックする。


「姫様、先ほどお話申し上げた者を、連れて参りました」


部屋の中からは何の反応もない。それはそうだろう。たぶん、おそらく、きっと、中にいるお姫様も、俺に帰ってほしいと思っているはずだ。


……ああ、ここでいいです、と言おうとしたそのとき、女性はおもむろに扉を開けた。これはびっくりした。心の中で、開けるんかい! と思わず叫んでしまった。


女性はズンズン部屋の中に入っていくが、中は真っ暗だ。これも、俺にはよくわかる。ああ、前世の頃と同じ。と心が締め付けられる思いがする。


暗くて部屋の様子はわからないが、部屋の中にいつくかの部屋があるようだ。目の前にもう一枚の扉がある。女性はそこで立ち尽くしていた。


再び扉をノックする。当然ながら部屋の中からの反応はない。女性はじれているのだろうか、もう一度ノックする。


「姫様、先ほどお話ししました、西キョウス地区統監様がお見えでございます。お出ましを」


その声からは怒などの感情は感じない。むしろ、言わなくてはいけないので、仕方がなく言っているという雰囲気だ。


……やはり、反応はない。女性はスッと扉の前から離れた。部屋がくらいのと、女性が黒い服を着ているために、すぐに姿が見えなくなる。戸惑っていると、部屋の奥で小さな明かりが点いた。


実際はほのかな光なのだが、暗い部屋の中で突然現れたそれは、俺にとってはまぶしいと感じる程だった。女性の手にはランプがあり、彼女はそれをもってゆっくりと俺の許に帰ってきた。


俺は絶句してしまった。ランプの光越しに見る彼女の目は、完全に死んでいた。とても深い悲しみを湛えた目をしていた。


「あっ」


今度は思わず声が出た。女性は何の前触れもなく、無造作に扉を開けて中に入った。一瞬の間をおいて、ドスン、という音が仕方と思うと、カサカサと何かが這いまわる音が聞こえる。思わず部屋の中を見てみると、何やら、黒くて長い物体が、スルスルとベッドの下に入っていくのが見えた。


女性は無言のまま立ち尽くしている。ランプの光越しに、ベッドの下から黒い何かが覗いているのが見える。これは一体、何だ?


……髪の毛だ。あれは、確かに、髪の毛だ。ということは、さっきのドスンという音と、カサカサという音は、お姫様がベッドから転がるようにして落ちて、そのままベッドの下に隠れた、ということだ。しかも、この髪の毛は、相当に長い。ひと月やふた月切らなかった程度ではない。下手をすると、数年単位になるかもしれない。


あまりの光景に俺はしばらくの間、その場に立ち尽くす外はなかった……。

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