第三百六十五話 事は急げ
「じゃあ、これで帰ることにするよ」
クレイリーファラーズと何やら話していた殿下が、突然俺に話しかけてきた。彼は上機嫌な様子だった。
「そうだな……ラーム鳥の卵から雛が孵化するのは再来月くらいか。では、三ヶ月後にまた来ることにするよ。そのときに、ラーム鳥の雛をいただこうじゃないか」
「お任せください」
クレイリーファラーズはそう言って胸を張った。そんなできもしないことを約束して大丈夫か、という言葉を飲み込む。
「じゃあ」
そう言って彼はスタスタと玄関に向けて歩き出した。ああ、ギルドに頼んで、インダークの帝都まで護衛を付けますからという言葉を発する前に、彼はすでに馬上の人となっていた。
「オージが心配しているだろうからね。急いで帰らないと」
そう言って手綱を引き、馬の腹に足を当てた。馬は高い声で嘶くと、脱兎のごとき速さで走り出した。みるみる彼の姿が小さくなっていく。
「……」
呆気にとられる、と言うのはこのことだ。まるで、風のような速さで消えてしまった。
しばらく俺は殿下の姿が消えた国境を眺めていたが、やがて踵を返して屋敷に入った。クレイリーファラーズの姿はすでになかった。すぐに外から彼女の指笛と思しき音が聞こえてきた。察するに、スズメたちに命令をしているのだろう。
「……あれ? 殿下は?」
そう言ってヴァッシュがパルテックを伴って部屋から出てきた。その腕には、ワオンが抱かれている。どうやら、荷物の整理は終わったようだ。
「つい、たった今、帰ったよ」
「帰った?」
不思議そうな表情を浮かべながらダイニングの椅子に座る。ワオンが腕から飛び出してきて俺の所にやってくる。その彼女を抱き上げて、俺も彼女の向かいに座る。
「ああ。まるで風のように消えてしまったよ。ものすごい行動力だな。いつもあんな調子で暮らしているのかな」
「私の知る限り、東宮殿下は、帝都のお城から一歩も出ずにお暮しになっているはずのなのだけれど……」
「ひょっとすると、あれはそっくりさんか」
「そんなことはないと思うわ。東宮殿下の名前を語ると、帝国内では死罪になるわ。さすがに、そんなことはしないと思うし、何より、お父様が……」
「そうだね。お義父上の様子を見ていれば、自ずとあのお方がただ者ではないのは、容易に察しが付くよね」
そう言って俺は笑みを浮かべる。パルテックがお茶でも入れましょうとキッチンに消えていった。
俺はワオンを撫でながら、少し不安な感情を覚えていた。言うまでもなく、このリリレイス王国とインダーク帝国との間に問題が起こらないか、という点だ。
遅かれ早かれ、殿下の訪問はあの、シーズの耳に入ることだろう。そうなると彼はどう動くだろうか。まさか、俺がインダークに寝返った、などとは考えないとしても、色々詮索される気がする。どんな話をしたのか、どんなことを頼まれたのか、など。考えただけでも、吐き気がしてくる。俺は、あの男の傍には五分たりと一緒には居たくないのだ。
否と言おうが応と言おうが、あの男とは近いうちに喋らねばならない。で、あれば、早めにあの男の懐に飛び込んだ方がいいだろう。
「……手紙を、書くよ」
「手紙?」
「ああ。シーズに手紙を書く。そして、この数日のことを報告しようかと思う」
「……それがいいわね。むしろ、そうするべきだわ」
ヴァッシュのまっすぐな視線を見て、俺は自分の判断が正しいことを自覚する。そんな俺に彼女はさらに言葉を続けた。
「できれば、王都に行って、直接報告した方がいいわよ」
「王都に、ね……。それは後でもいいかなと正直思っていたのだけれど」
「早いに越したことはないと思うわ」
「……わかった。せっかく荷物をしまったのに、また、荷造りをしてもらわないといけなくなるね」
「大丈夫よ。これでも、旅の準備はずいぶん早くなったのよ。今度は、一時間もかからずに荷造りを終えて見せるわ」
そう言って彼女は笑う。その笑顔を見ていると、何となく大丈夫だと思えてくるのだ。何とも不思議な感覚だ。
「じゃあ、三日後に王都に出発しましょうか」
「みっ、三日後ぉ?」
思わず頓狂な声がでてしまった。パルテックが何事かとキッチンから飛び出してきた。同時に、腕に抱かれているワオンが目を丸くして俺に顔を向けた。
「はっ、早すぎない?」
「そんなことはないわ。だって、一ヶ月後には、ドワーフの炎寄せが終わるのでしょ?その頃までには、シーズ様への報告を終えてこの村に帰って来なければならないわ。そうしないと、溶鉱炉の建設も、金の採掘状況も計画通りに進まないと思うわ」
「あー確かに」
「ちょうどいいじゃない。王都からの帰りにエイビーの町に寄って、採掘状況の確認と、溶鉱炉の建設予定地を決めればいいのだわ。そうしておいて、ドワーフの炎寄せの結果を聞くの。あなたの生み出したものが溶鉱炉建設に耐えうるものであれば、そのままドワーフを連れてエイビーに戻って建設に当たれば、すべてがスムーズにいくわ」
「なるほど。ヴァッシュの言う通りだ」
「そうと決まれば、あなたは今夜中にシーズ様への手紙を書いておいてね」
「今夜中?」
「そうよ。三日後には出発するのだから、明日には手紙を出さないと。それでも遅いくらいだわ」
俺は思わず天を仰いだ。手紙書くの、苦手なんだよな……。




