第三百五十四話 東宮殿下
……そんなに笑うことないじゃないか。そりゃ、あんな変な香りが充満していれば、誰だって気分が悪くなるというものだ。
目の前の東宮殿下は、涙を流しながら笑い続けている。俺はどうしてよいのかがわからず、コンスタン将軍に視線を向けるが、彼は一切表情を変えずに俺たちを眺め続けていた。
「……お待たせしました」
女性の声が聞こえた。見ると、ソフィア内親王がドレスのような衣装を纏って現れた。おお、こうして見ると、やはり美しい人だ。
「さっきから何を笑い転げているのよ、お兄さま」
「フッ、ハハハ……。いや、すまない。それにしても、久しぶりに笑ったよ。もう、これだけで、ここに来た甲斐があったというものだよ」
「……変なお兄さま」
「ソフィア、喜べ。彼が吐瀉したのは、お前が美しすぎたからだそうだ。きれいなお姉さんは苦手なのだそうだ。お前の美しさに緊張して、吐き気を催したというのが真実のようだ」
「……全然嬉しくありませんわ」
彼女はフンとそっぽを向くと、東宮殿下の隣の腰を下ろした。彼は涙を拭いながら、俺と将軍に目の前の椅子に腰かけるように促した。
「実を言うとね、僕は君と内々の話がしたかったんだ」
突然真顔になって、驚いてしまう。先ほどまでの笑みが一切なくなっている。俺は思わず背筋を伸ばす。
「宰相のニウロ・アマダが君のことを誉めていた。そして、オージも君のことを認めている」
ニコリと笑うが、目は一切笑っていない。一体この男は俺に何を求めようとしているのだろうか。
「僕はね、リリレイスと我が帝国の関係を深めたいと思っているんだよ」
関係を深めたい、などと言うが、すでに両国は平和条約を締結している。これ以上何を望むと言うのだろうか。
「父上があんな状態だろう? まあ父上には近い将来にご隠居を願う段取りになっているんだけれどもね。あ、これはナイショにしておいてくれ給え」
「は……はあ……」
「父上がご隠居あそばすと、僕が帝位を継ぐことになるのだけれども、そうなったときに、リリレイスと争いが起きないようにしておきたいんだ。リリレイスには、宰相メゾ・クレールと君の兄上であるシーズがいる。この二人がいる間は、あの国は盤石だと僕は見ている。それどころか、少しでも隙を見せると、攻め込まれはしないまでも、色々と厄介な問題が起こる可能性がある。そうならないように、後顧の憂いを断っておきたいと思うのは、君にもわかるだろう?」
「は……はあ」
「それに、君だ。あの「冷徹のシーズ」の弟にして、領内に神木を有した優秀な領主、しかも我が国との国境を接する土地を統括していると聞けば、誰だって楔を打っておきたいと思うのが自然の流れだ」
「オホン」
「わかっているよ、オージ。でもね、僕は彼に嘘は言うべきではないと思っているんだ。そう言うのは君は嫌いだろうし、それに、何となくだけれど、そうした嘘を君は見抜いてくるんじゃないかな?」
「そ……そんなことは……」
「フフフ、その態度は、謙遜だと受け取っておくことにするよ」
……この東宮殿下が何を考えているのかがイマイチわからない。宰相やシーズを警戒するのはわかる。特にシーズは、ネチネチと嫌がることをやってきそうだ。そうか、あの男は、「冷徹のシーズ」と呼ばれているのか。言い得て妙だ。そういえば、この東宮殿下とシーズの笑い方は似ている気がするのは、俺の気のせいだろうか。
「そんなことを考えていたら、オージが君を屋敷に招待すると言うじゃないか。こんな機会は滅多にない。そこで、オージに無理を言って武官の一人として参加させてもらおうとしたら、この妹のソフィアも一緒に行くと言って聞かなくてね。仕方がなく連れてきたという訳さ」
「そ……そうですか……」
「ところでさ、君。話は変わるけれど、妹を娶る気はないかい?」
「はあっ!? めっ、娶るぅ?」
「どうやら妹は君を気に入ったみたいだ。よければ、妻にしてやってくれないか?」
「そっ、そんな……いきなり言われても……。俺には……」
「ヴァシュロンという妻がいると言いたいんだろう? それは問題ない。な、ソフィア?」
「別に私は第二夫人でも全然かまわないわよ」
「……オホン」
「そんなに怒らなくてもいいだろう、オージ。この世の中、妻の一人や二人を持つことは当たり前だ」
「いっ、いや、あの……俺にはもったいないお方で……」
「別に勿体なくはないさ。ソフィアが嫁ぎたいと言うのだから、それでいいじゃないか。彼女もそろそろ嫁に行かなければいけない年齢でね。ただ、なまじっか王女という身分があるために、なかなか嫁ぎ先が決まらないのだよ。周辺国の王を見廻してみても、安心して妹を嫁がせられるような者は見当たらなくてね。君だったら、安心して妹を託せる。何より、帝国と近いというのがいい。何かあればすぐに飛んでいけるしね」
……さっきから何を言っているんだこの男は。イヤだよそんな結婚は。俺にも選ぶ権利がある。第一、ヴァッシュが受け入れるとは思えない。むしろ、揉め事しか起こらない気がしてならない。
「あの……でしたら、リリレイスの国王様やそれに連なるお方の許に行くというのは、どうなのでしょうか……」
俺の言葉に、東宮殿下はキョトンとした表情を浮かべる。
「リリレイス王にそのような皇子がいたのか? それは初耳だ。どんな男だ? 王が死んでもう三年になるけれど、いくつのときに生まれた方だい? 年齢は?」
……ちょっと待て。今何て言った? リリレイス王は、死んでいるのか!?




