第三百五十三話 ゲロゲロ
……頭がボーっとする。一体何なのだろうか、この感覚は。ああ、この香りのせいか? 何とも言えぬ香りだ。バラ? ラベンダー? よくわからないが、たぶん、花系の香りのような気がする。あまり好きな香りじゃない。
天蓋付きベッドからスッと真っ白い手が伸びてきて、ベッドを覆っている白く薄い布がはがされる。そこから現れたのは、見目麗しい美女だった。
「あ……」
この顔には見覚えがあった。そうだ。俺たちが踊った後に歌っていた女性だ。その彼女が薄い下着一枚の状態でベッドから出てきた。これは一体、どういうことだ……?
「あなた様と是非、お話ししたくて、お呼び立てしました」
彼女はそう言うと俺に抱き着き、そのまま後ろにあったソファーに、まるで倒れ込むようにして腰を下ろした。
「……ツ」
女性の顔が至近距離にあった。見れば見る程に美しい顔立ちだ。心臓の鼓動が早くなってくる。これは、一体……。
俺の戸惑いをよそに、女性は俺の耳元に顔を近づけて、まるでナイショ話をするように口を開いた。
「実は、私、あなた様の、子種をいただきたいのです」
「……」
何て言った? 子種、って言った? 何だそれは? 彼女は、何を言っているんだ……?
「私は、あなた様の子供を宿したいのです。ですから、ね? お願い……」
彼女はそう言ってさらに強く抱きついてきた。力いっぱいに俺を抱きしめていることがよくわかる。
「うっ、ううっ」
「大丈夫です。興奮しないで。私はいつでもあなた様を……キャッ!」
思わず女性を突き飛ばしていた。そして窓に向かって走っていき、勢いよくそこを開けた。
「ウェェェェェェー」
俺は激しく胃の中のものを吐瀉していた。しかもそれは、何度も襲ってきた。
「なっ、何? 何なの? 一体何なのよ!」
俺の後ろで女性が悲鳴にも似た声を上げている。そのとき、部屋の扉が勢いよく開き、人が入って来る気配がした。誰だと思ったが、俺はえづきつづけているので、確認することができない。
「何だいこれは……? これは……」
若い男性の声が聞こえる。俺は胃の中ものを吐き出しきって、ようやくひと心地尽くことができた。
ゆっくりと振り返る。そこには、腕を組みながらあらぬ方向に視線を泳がせる女性と、俺をここに案内してきた若い武官が立っていた。女性は明らかに怒っている様子で、武官は呆気にとられたような表情を浮かべている。
「何事だ」
コンスタン将軍が足早に入室してきた。部屋に入るなり、ギョッとした表情を浮かべた。いつも冷静で表情を全く崩さないこの将軍が、こんな狼狽えた姿を見せるのは珍しい。
「ダメだったみたいだねぇ……ソフィア」
若い武官が両手を挙げてヤレヤレといった表情を浮かべる。それに対して女性は相変わらず怒った態度をとったままだ。
そのとき、コンスタン将軍がツカツカと女性の傍に近づく。そして、すぐ目の前まで来たとき、彼は何と片膝をついて頭を下げた。
「内親王殿下、お戯れは、お止めください」
「な……内親王殿下?」
内親王って、アレなんじゃないか? たしか、王族の……?
「失礼しちゃうわ」
「……殿下」
内親王殿下と呼ばれた女性は未だプリプリと怒っている。そんな様子に、若い武官がカラカラと笑い声を上げた。
「ハッハッハ! こういうこともあるのだねぇ。まさかソフィアがフラれるとは思わなかったよ。生まれて初めてフラれたんじゃないのか?」
「お姉さまが悪いのよ! お姉さまの言う通りやってみたのよ? その結果がこれよ! お姉さま、私に嘘を教えたのだわ!」
「まあ、お前とは自ずから違う、ということだよ」
「どういう意味よ!」
「妃殿下、落ち着かれませ。東宮殿下もお戯れは止めていただきたい」
「とうぐう殿下?」
呆気にとられる俺に、若い武官はヤレヤレといった表情を浮かべている。
「ああ、言っちゃったよ。オージは口が軽いねぇ……」
一体何がどうなっているのかが俺にはさっぱりわからない。そんな俺にコンスタン将軍がじっと視線を向けてきた。
「こちらは、インダーク帝国王太子であらせられる、ジャス・ムーボン・インダーク様である。そのお隣が、その妹君であらせられる、ソフィア・インダーク内親王殿下である」
「……え?」
王太子? 内親王? 何でそんな人がここにいるのか、そして、その、内親王と呼ばれる女性がどうして俺に迫ってきたのか……。俺は訳がわからずに、三人の顔に順番に視線を向ける。
「ジロジロ見ないで」
女性はそう言うと恥ずかしそうにベッドの中に戻っていく。
「やれやれ、オージに無理を言って歓迎会に潜り込めたところまではよかったんだけれどもねぇ……。まさか、こんなことになるとは。いやはや、物事というのは、思った通りにはいかないものだねぇ」
「あの……」
「まあ、君が混乱するのももっともだ。今から説明しようじゃないか。まずは椅子に掛けてくれたまえ。おーいソフィア。お前も早く衣服を整えてこちらに来るんだ」
わかっているわよ! とベッドの中から声がする。コンスタン将軍も何とも言えぬ表情で席に着いた。
「それにしても、まさか吐瀉するとは思わなかったよ。君は、ヴァシュロンと結婚しているのだろう? ということは、女性は大丈夫なはずだが……。私の目から見ても妹は、優れた容姿をしていると思うのだけれど、どうしてそうなった?」
「……俺は」
「うん。俺は?」
「……きれいなお姉さんが苦手なのです」
一瞬の沈黙の後、王太子と呼ばれた男は、腹を抱えて爆笑した。
新年あけましておめでとうございます! 今年もどうぞ、『ひきこもり転生』ご贔屓・お引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。
片岡直太郎 拝




