第三十三話 ト〇ロ
毎朝掃除にやって来るヴィギトさん夫婦が来ない。いつもは時間通りにやってきて、二人と笑顔で挨拶を交わし合うのが日課だったのに、今日はその姿が見えない。俺がここにやって来て、初めてのことだ。
その理由はわかっている。俺はゆっくりと勝手口に向かい、扉を開ける。そこには、口をポカンと開けたまま微動だにせず、固まり続けるヴィギトさん夫婦がいた。その視線の先には、天に向かって伸びる巨大な大木があったのだ。
「まあ、あれをみたら、大抵の人は固まるわな」
そんなことを呟きながら俺は、二人の所に向かう。無理もない、彼らの家は、ちょうど屋敷の下にあり、この木は彼らの家からは見えない位置にある。丘を登り切ったところで初めてこの木とご対面になるのだ。そりゃ、驚くだろう。
この大木は、先ごろ芽を出したタンラの木だ。クレイリーファラーズが育て始めた当初は、ほとんど生育しなかったのだが、突然巨大化したのだ。それに気が付いたのは、昨日の夜だった。
夜、ぐっすりと眠っていると、突然地震が起こった。最初は何事かと思ったが、特に何もなかったため、俺は再び眠りについた。だが、その数分後、再び屋敷が揺れた。しかも、地面から突き上げられるような、いわゆる縦揺れだ。これは危険だと判断した俺は、部屋の外に飛び出し、クレイリーファラーズを連れて逃げようとした。だが、彼女はハンモックの上で眠ったままイビキをかいていた。
ちょっとイラッとしたが、その直後、再び縦揺れに襲われて、俺は思わず床にしゃがみこんだ。ドン、ドン、ドンと下から突き上げるような音と振動が伝わってくる。そして、すぐに訪れるゆっくりとした横揺れ。間違いない。大地震の揺れ方だ。このままでは危ない。俺は這う這うの体で勝手口に向かった。
揺れながら俺は最悪の状況を想定する。おそらく村に甚大な被害が出るだろう。とすれば、村人が住む家や食料、救援物資の用意をしなければならない。そう考えると、テルヴィーニが入っているヴィーニを持って出るべきだが、このままでは屋敷が崩壊する恐れがある。まずは俺の命を守ることが先決だ。クレイリーファラーズは、何とかなるだろう。そんなことを考えながら、俺は勝手口から庭に飛び出す。すると、目の前には驚愕の光景が目に入った。
何と、タンラの木が巨大化しながら天に向かって伸びていたのだ。三本の木が巨大化しつつ、枝を広げていく。そして、いつしかその三本は一本の木のようになり、さらに巨大化して天に枝を突き上げた。
俺は口をポカンと開け、その光景を見ているしかなかった。しばらくして、その成長はゆっくりと止まり、辺りには静寂が訪れた。あまりに信じられない光景を目にした俺は、しばらくその場から動くことができず、膝立のまま、呆然となった。そして、何を思ったのか、自分でも理解できない言葉を思わず呟いた。
「ト……ト〇ロやん……」
辺りを見廻しながらゆっくりと立ち上がる。村の方角に視線を向けてみたが、暗くてここからではよく見えない。俺は村の様子を見に行かねばと思いながらも、目の前の巨木に吸い寄せられるように歩いていく。
「……何じゃこりゃ。デケェ」
幹の太さは、俺の屋敷の半分くらいあるだろうか。ふと天を仰ぐと、その幹の遥かに高い所から太い枝が生えていて、空を完全に覆ってしまっている。俺は無意識に、拳でその幹を叩いてみるが、カン、カンと乾いたいい音がする。しかも、固い。何となくだが、切り倒すことは難しいと感じる。と、いうより、これだけの太さと高さのある木を切り倒してしまうと、とんでもないことになりそうだ。屋敷に向かって倒れてくると、確実に屋敷は崩壊するだろうし、森に向かって倒れても、森が崩壊する。エライものが出来上がってしまった。
俺はヨロヨロと木から離れる。屋敷に向かって歩きながら何度も振り返って、その存在を確認する。夢じゃないよな、幻じゃないよなと何度も自問自答を繰り返しながら、屋敷の前までやってきた俺は、小さな声で呟いた。
「これ、どないするべ? なんか、ヤバくね? いや、絶対、ヤバイって……」
俺はその場所から動くことができなくなった。
ほどなくして、辺りが徐々に明るくなっていく。それに比例して、周囲の様子も見えてくる。目の前の巨木は、黒い幹を朝日に照らされながら、堂々と立っている。そして、その枝の先には、緑の葉が生い茂っていて、空を完全に隠している。その威容に圧倒されながらも俺はふと、村の方向に視線を向ける。どうやら、村には被害がないようだ。だが、いきなり小高い丘の上に、こんなバカでかい木が現れたのだ。騒動になることは間違いない。
俺はふと思い立ったかのようにして、屋敷の中に入る。中は温かかった。夜にずっと外に居たので、体が冷えていたようだ。だが、そんなことはお構いなしに、俺はテーブルの上に立ち、クレイリーファラーズを起こす。
「……痛ッ! 痛い! 痛いですよ! ちょっと叩かないでください! 女性に何てことを! 天巫女を叩くなんてあなたねぇ!」
怒りながら起き上がる彼女の目を見つめたまま、俺は無言で巨木のある方向を指さす。
「……何ですか? 何? どうしました? ちょっと、え? 何? どうしたの?」
彼女はおどおどしたような目つきになりながら、フワリと床に降り立ち、俺を何度も見ながら勝手口の方向に向かう。そして、外に出た彼女は数秒後、ギャァ~ともキャーともつかない絶叫を張り上げた。
外に出てみると、クレイリーファラーズは、目を向いたままポカンと口を開け、女性とは思えない程の表情を浮かべたまま、固まっていた……。




