第三百十三話 ありがとう、ありがとう
促されるままに外に出てみると、馬車が控えていた。すでに扉は開けられていて、俺が乗り込むのを待つだけの状態だった。
まさか、馬車で外出するものとは思わなかった。今、俺が着ているのはパジャマだ。さすがにこの格好で外出するわけにはいかない。俺は少し待ってくれと言って、もう一度部屋に戻る。
ええと、俺の服はどこにやったかな? そうだ、ヴァッシュが知っているんだった。彼女の姿を探すが、どこにもいない。まだ、バスルームかな?
「ヴァッシュ~」
勢いよく扉を開けると、まだ、一糸まとわぬ状態の彼女がいた。彼女は髪の毛をタオルで拭いているところで、俺の姿を見て、目を丸くして驚いている。
「何よ?」
「俺の服はどこに仕舞った?」
「茶色の旅行かばんよ」
「茶色? どこにある?」
「ベッドの傍にないかしら?」
「……見当たらないな」
「そんなはずないわ」
「ワオン、お前知っているか?」
「きゅー」
ワオンも俺に抱っこされながら首を振っている。ヴァッシュは仕方がないという表情を浮かべながらバスルームから出てきた。まだ、下着一つ身に付けていない状態だ。
「ええと……ああ、ここだわ。ここにあるわ」
ベッドの周りをうろうろしていたが、どうやら、クローゼットの中にあったようだ。彼女は旅行かばんを取り出すと、中を開けて無造作に上着とズボン、そして、シャツを取り出した。
「これでいいんじゃない? 着てみてちょうだい」
「え? 今?」
「今じゃなくて、いつ着替えるのよ?」
「いや、なんか、着替えにくいな……」
「何言って……」
ヴァッシュは話を途中でやめたかと思うと、ハッとした表情を浮かべた。どうやら、自分が裸であることを、今気づいたようだ。
「とにかく、着替えて、ちょうだい……」
彼女はそう言うと、そそくさとバスルームに戻っていった。赤みが差した顔が何ともかわいらしかった。
ちょうど俺が着替え終わると同時に、ヴァッシュもバスルームから出てきた。私も一緒に行くと言っていたが、取り急ぎ俺だけで確認してくると言って、部屋を後にした。
馬車に乗って外の景色を眺めていると、昨日までとは全く違う景色となっていた。縦横無尽に走っていた、大小さまざまな川は、その大部分が干上がっていて、所々に大きな水たまりを作っていた。さらに、その水たまりには、大勢の農民たちが集まって、何かの作業をしているように見えた。
程なくして馬車は止まった。扉が開いたので外に出てみる。そこには、シーアをはじめとする、彼に仕えている家来たちが集まっていた。
「統監様……」
シーアの眼に涙が浮かんでいた。一体何事かと驚いた俺は、慌てて彼の許に駆けよる。
「どうしたのです?」
「見てくれ、この光景を……」
彼の指さす方向には、農夫たちが大喜びで魚を獲っている様子が見えた。
「農民たちが、このように喜んでいる姿を見るのは、初めてだ」
「そうなのですか?」
「毎年毎年、川が荒れて田畑が水浸しにならないか……皆、いつも不安そうな顔をしているんだ。でも、今日は、彼らは本当に嬉しそうだ。……いや、魚が採れているからじゃない。もう、大水の心配はないことがわかって、彼らは本当に、本当に、心から喜んでいる。本当に、感謝する。ありがとう。ありがとう、ございます……」
「いいえ。これからです。これからですよ。この川の所に土を入れて、作物ができるようにしなければなりません。どんな作物を植えるのかも決めなければなりません。ちゃんと作物が育つかどうか……。あ、土なら、堤防の所に積んでいる土を持って行ってください」
「うん。そうだね。確かにそうだ。このキーングスインの地に合うような作物を育てなければいけない。これからだ、これからだね」
「そうですよ。これからです。参考になるかどうかはわかりませんが、色々な作物を植えてみればいいと思います。それで、生育状況がよいものを中心に植えればいいと思います」
「なるほど。参考にさせてもらうよ。ありがとう」
「さっきから、ありがとうばっかりですね」
「仕方がないよ。本当に、ありがとうと言う以外、言葉が見当たらないんだから」
そう言って俺たちは笑いあった。
ちなみに、シーアと何を植えるかの具体的な話に及んだとき、ふと、クレイリーファラーズの顔を思い出してしまい、一応、イモを植えるように勧めておいた。ただ、ヤツの好きなサツマイモだけを植えて、もしそれが育ってしまった場合、このキーングスインがサツマイモの産地となってしまう恐れがある。そうならないために、サツマイモだけでなく、小イモやジャガイモなど、いくつかの種類を紹介しておいた。
後日、キーングスインでサツマイモが栽培されることを知ったクレイリーファラーズが、狂喜乱舞したのは言うまでもない。それを勧めたのが俺であることを知るや、彼女は、首を振りながら、しみじみとした口調でこう言った。
「やっと、あなたも私がわかって来たのですね……。ハア、ここまで育てるに、苦労した甲斐がありました」
むろん、この天巫女には二週間のオヤツ抜きを言い渡し、それを厳守したのは、言うまでもない……。




