第三十話 ハウオウル
「これはこれは、ご領主、今日はお早いお越しじゃな」
にこやかな笑みを讃えたまま俺を迎えているのは、ハウオウルだ。彼は小さなかばんを肩にかけ、いかにも魔法使いと言わんばかりの大きな杖を携えていた。
ここは村の宿屋だ。受付と食堂が一緒になっているため、朝食時は実に騒々しい。そんな中彼は、ちょっと近所まで散歩に出かけるかのような出で立ちで、俺の前に立っていた。
「で、何か儂に聞きたいことでもあるのかな?」
ハウオウルへのクエストは既に完了し、彼にはおそらくギルドを通じて報酬が支払われているはずだ。だが彼は、魔法のことでわからないことがあればいつでも教えると言ってくれていた。俺としては教えて欲しいことは山のようにあり、その後も何度か彼の許に通ったのだが、明日以降はできなくなるのだ。何故なら彼は今日、旅に出てしまうからだ。
あと一週間くらい居ると言っていた彼だが、本当に一週間後に旅立つとは思わず、前日に宿屋の女将さんからハウオウルが明日旅立つと聞いて、かなり驚いた。というのも、ほんの数分前まで俺は彼に魔法を習っていたのだが、彼は明日旅立つ、などは一言も言っていなかったからだ。
ちょっとショックだったのと、やはり名残惜しさも手伝って、日課である朝の散歩がてらに田畑の様子を見に行く時間に合わせて、宿屋を尋ねてみると、ちょうど彼が旅立つところに出くわせたのだった。
「もう、出発されるのですね」
「ああ、そろそろ儂も行かねばならぬでな」
「あの……よかったら、これ……食べてください」
「ほう、何じゃろうかの?」
彼は俺が渡したものを受け取る。それは両手いっぱいの大きさの布で包まれた塊だった。彼は訝りながらそれをほどいていく。中からは葉っぱにくるまれた、三つのこぶし大の大きさの塊が入っている。彼はその一つを取り出し、葉っぱをゆっくりと剥がしていく。
「なんじゃな、これは?」
「おにぎりです」
「おにぎり?」
「米を焼いたものです。その葉っぱは殺菌作用があります。……ええ。クレイリーファラーズがそう言っていましたから。おにぎりも、焼いてありますから、日持ちします。ちょっと硬いのが玉に瑕なのですが……でも、美味しいと思います」
彼はうれしそうにニコリと笑うと、ホッホッホと小さな笑い声をあげた。
「これはご領主自ら、恐れ入るの」
「いえ、せめてものお礼です」
「そうか……ありがたく、いただくぞい」
彼は焼きおにぎりを大事そうに鞄に仕舞う。
「ご領主、世話になったの」
「いいえ、こちらのセリフです。本当にお世話になりました。是非、また、この村にお越しください」
彼は俺の言葉に何も言わず、いつものようににこやかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頭を下げ、そしてスタスタと歩き出した。俺は、彼の背中が見えなくなるまでそこに立ち尽くし、見送り続けたのだった。
「……長生きはするものじゃな。まさか、天巫女付きのご領主さまがいるとは。と、すると、あのご領主様は神の使徒様かの? いずれにせよ、あの村は面白い。また、近いうちに戻ってもええかもしれぬな」
ハウオウルはにこやかな笑みを浮かべながら、森の中を歩いていた。彼にとって、ラッツ村は実は驚きの連続だった。自ら魔法を教えて欲しいという領主、しかも、魔物を倒すのではなく、かまどに火を点けるためという。その動機もさることながら、その男には天巫女が付いていた。死者を天界に導く神の使途である天巫女。最初その姿を見たときには、まさか彼女が天巫女などとは思いも寄らなかった。だが、彼は他人の魔力を感じ取ることができる。その優れた能力で彼は、目の前の男が途方もない魔力を持っていることを看破し、その後ろに控えている女性が天巫女であることを見抜いたのだ。
彼は久しぶりに興奮した。膨大な魔力を内包する青年と天巫女。たまたまギルドで見かけたクエストだったが、彼は直感的に、それが何かとんでもないことになるかもしれないと感じ、思わず応募してしまったのだ。これは、今までの彼にとっては、ありえない行動だった。
だが、この二人を見たときに彼は確信した。これにはおそらく、神の意思が働いている。本来は、こういうことには触れない方がいいのだ。何故ならそこには神の意思が宿っており、下手に手を出せば、神の逆鱗に触れる恐れがあるからだ。
だが、彼はその危険を冒してでも、この男に近づきたいと思った。青年には、貴族にはない、純朴さが見て取れた。言わば真っ白な心を持つ青年……。こうした男、しかも初めて魔法を習うということは、一つ間違えば大いに道を踏み外すことにもなりかねない。そう悟った彼は、もう二度と人と関わり合いにならないと決めた己との約束を破り、再び人との触れ合いを持ったのだった。
その昔……彼には苦い経験があった。なまじっかに魔法の才能があったばかりに、その才能を妬まれて国を追われた。そして、冒険者となり、世界中を旅する中では魔物との戦いに次ぐ戦いに明け暮れ、大切な友や愛する人を次々に亡くしていったのだ。彼の行くところ常に大きな戦いが起こる。あるとき彼は、その戦いだけの人生に虚しさを感じ、他人と関わることを止め、一人で生きようと決意した。それから30年……。まさか自分から人に関わろうとするとは、彼自身も予想していないことだった。
「あのご領主もさることながら、あの村も不思議じゃな。何やら作物の生育が、他の土地よりも良いような気がするの。やはり、神の加護を得ているからか……。それに、お屋敷に無造作に植えられているソメスの木……」
そこまで呟いた彼は、口元をほころばせて、ニコリと笑みを漏らす。
「秋の収穫のときにでも、また行ってみるか……。久しぶりじゃの、また行ってみたいと思わせてくれた土地というのも……」
そんなことを呟きながら彼は、次の街に向けての歩みを、早めるのだった。




