第二百八十五話 ようやく
「……!」
ヴァッシュの肩に手を添えた瞬間、彼女は目をパチリと覚ました。一体、何が何だかわからないといった表情を浮かべている。
「大丈夫か、ヴァッシュ?」
俺の問いかけに、彼女の眼の焦点が徐々に合ってくる。
「私……」
「眠っていたよ。疲れていたんだね」
「……」
彼女はゆっくりと体を起こし、キョロキョロと周囲を見廻す。
「どのくらい寝ていたのかしら?」
「そんなに長い時間ではなかったと思うよ」
「そう……」
彼女はゆっくり目を閉じると、体を小刻みに動かした。どうやら、俺たちにわからないように背伸びをしているようだ。
「よく眠ったみたいだね」
彼女は少し頷く。余程疲れがたまっていたのか、神の仕業か、その辺のところはよくわからないが、まあ、これはこれでよしとしよう。
「で、どうなったの?」
「ああ。クレイリーファラーズさんね。今まで通りだよ」
「そうなの?」
「何だい、ヴァッシュはいない方がいいのかい?」
「別に、そうは思わなけど……」
「けど、何だよ」
クレイリーファラーズが小さな声で呟く。だからやめなさいよ、ケンカになるでしょうが。
俺の心配をよそに、ヴァッシュはスッと立ち上がり、少し身なりを整えると、ツカツカとクレイリーファラーズの許に近づいていく。
「なっ……何?」
「これからも、よろしくお願いね、クレイリーファラーズさん」
「う……よろしくお願いします」
ヴァッシュはクルリと踵を返して、今度はスタスタと俺に向かって歩いてきた。
「さあ、宰相様たちを呼びましょう」
「ああ、そうだな」
俺の返事を受けて、ヴァッシュは部屋を出て行った。どうやら、外に控えている者に、話が終わったと宰相に伝えてほしいと言っているようだ。ふと見ると、クレイリーファラーズが親指を地面に向けている。だからやめなさいって。
「あの小娘、絶対に自分がかわいいと思ってるよ。実際は、そうでもねぇぞ」
「いや、ヴァッシュはかわいい」
クレイリーファラーズの舌打ちが聞こえたような気がするが、放っておくことにする。舌打ちをすれば、それをした分だけ運気が下がると聞いたことがある。きっと、この天巫女は運気に見放されることだろう。
「まもなく、宰相様がお見えになるわ」
そう言ってヴァッシュはソファーの前に立った。俺も改めて彼女の隣に立つ。すると、タイミングよく宰相とシーズが入室してきた。彼は元居た席に戻ると、俺たちに向かってスッと手を出した。その方向は部屋の扉を向いている。どうやら、クレイリーファラーズと差し向かいで面談するようだ。
ヴァッシュが俺の腕の裾を引っ張る。彼女に促される形で、俺たちは部屋を後にした。
「……クレイリーファラーズ、さん、よね?」
「うん?」
宰相との面談が終わるまでと、俺たちは別室に通された。二人だけになったとき、ヴァッシュが唐突にそんなことを言いだしたのだ。
「そうだけれど、どうしたの?」
「初めて言えたわ」
「そうなの?」
「何度聞いても、忘れちゃうのよ、あの人の名前……。クレイリーファラーズさん。うん、やっと覚えたわ」
「まあ、あんまり聞かない名前だからね。覚えづらいのも仕方がないよ」
「そういうわけにはいかないわ。あなたを育ててくれた女性じゃない。言ってみれば、親も同然の方でしょ? そんな方の名前を覚えないのは、失礼だわ」
「え? 何て?」
「あなたを育てた方でしょう? 確かに、お母様はおいでになられるでしょうけれど、そちらとは別に、あなたを幼い頃から育てた方なのでしょ、あのクレイリーファラーズさんは」
……どうやら、神様の記憶操作が功を奏しているらしい。当初説明していた内容が、うまい具合に、クレイリーファラーズのことが、ヴァッシュの記憶に刷り込まれているようだ。いや、待てよ? 神様を疑うわけじゃないけれど、俺の記憶は、ちゃんとそのままなんだろうな。その……俺のことを好きだという感情は、大丈夫だろうな……。
「……なあ、ヴァッシュ」
「何?」
「俺のことは……どう?」
「どうって、何が?」
「その……。俺は、ヴァッシュのことが好きだよ? で……ヴァッシュは……」
「つまらないことを聞かないでよ」
「つまらないって……」
「失礼いたします」
話しをしている途中に、突然、男性が割って入ってきた。どうやら、宰相との面談が終わったようだ。俺は仕方なく立ち上がって、元の部屋に戻る。
「ああ、お待たせしました」
宰相がにこやかな笑みを浮かべながら、俺たちに着席を促す。クレイリーファラーズは……顔を真っ赤にしている。何だ、怒っているのか?
宰相はそんなことはお構いなしと言わんばかりに、俺たちに向き直る。ちなみに、隣に控えているシーズは、相変わらず冷たい笑みを浮かべている。
「たった今、クレイリーファラーズさんとの話が終わりました。元のままで、いるとのことです」
「は……。承知しました。ご足労をおかけしました」
「いえいえ。今後とも、何かあれば相談ください。今日は色々とご苦労様でした。お疲れになったかと思います。どうぞ、お屋敷に戻られて、ゆっくりとお休みください」
「は……ありがとう、ございます」
俺は宰相に向けて深々と頭を下げる。そのとき、頭の中に、クレイリーファラーズの声が響き渡った。
『ゼッテェ許さねぇ……。ブッ殺してやる……』
……今度は、何なんだよぉ~。




