第二百八十話 本当に大丈夫?
「ほう、それは……」
クレイリーファラーズの言葉に、意外にも宰相が反応している。彼は目を少し開いてじっと彼女のを眺めている。ふと、隣のヴァッシュを見ると、こちらはすこし強張った表情を浮かべながらクレイリーファラーズを眺めている。
「お腹がすきますか?」
「はい」
宰相の言葉に、クレイリーファラーズは毅然とした表情で頷く。俺には何を言っているのかがさっぱりわからない。
「では、食事の希望はありますか?」
「はい。シンセン公爵様です」
「シンセン公爵……」
宰相は意外だという表情を浮かべる。シーズは全く興味がないと言わんばかりの表情だ。そのとき、宰相が俺に向き直った。
「食卓を変えましょうか」
「あのっ……ええと、すこし、話を、させていただけますでしょうか」
「よろしい。ただし、暴力は禁じます。また、脅迫めいた言葉も……」
「弟に限って、それはありません」
シーズが宰相の言葉に口を挟む。それを受けて宰相は、いつもの柔和な笑みを浮かべた。
暴力や脅迫……などと、物騒な言葉が宰相の口から聞こえてきた。一体、何がどうなっているんだ?
戸惑う俺を尻目に、宰相とシーズは立ち上がった。それに釣られるように、ハウオウルとパルテックも立ち上がる。ヴァッシュは……座ったままだ。
「ヴァッシュも……」
「私は、いるわ」
「でも……」
「私は、いなければならないのよ。ね、宰相様?」
ヴァッシュの問いに、宰相はゆっくりと頷き、そのままスタスタと部屋を出て行ってしまった。
三人だけとなると、部屋がやけに広く感じる。クレイリーファラーズは、全くあらぬ方向に視線を向けている。何だ? スネているのか?
「ねえ、ちょっと……うっ」
クレイリーファラーズに話しかけたヴァッシュが絶句する。突然、彼女はヴァッシュに顔を近づけたからだ。一体何だと思っていると、突然、ヴァッシュの体がガクンと折れた。
「な……おい、ヴァッシュ!」
片手で彼女の肩を掴んで揺すってみるが、全く顔を上げない。
「ちょっと、眠ってもらっているだけです」
クレイリーファラーズがこともなげに言う。何なんだよ、一体……。
「あのなぁ。眠らせる必要があるのか?」
「だって、面倒くさいじゃないですか」
「面倒臭いって……。で、宰相に一体何を言ったんだ? お腹すいているんじゃなかったのかよ」
「お腹はまあ、すいているっちゃすいています。おイモなら食べたいですが、宰相に言ったのは、そういう意味ではありません。主人を変えたいと言ったのです」
「ハア? 何を言っているんだ?」
「宰相やシーズの野郎は、私をあなたの奴隷だと思っているでしょ? ですから、それを逆手にとって、主人を変えたいと言ったのです」
「それがお腹がすいているとどういう関係があるんだ?」
「鈍いですね~。貴族の間で使われる隠語です。その昔、主人にひどい扱いを受けた奴隷が、藁をもつかむ思いで、時の宰相に言った言葉です。主人からの扱いを詳らかにすることはできない中で、必死で言葉を絞り出したのが、『お腹がすいています』という言葉だったのです。宰相はその言葉にピンときて、主人を取り調べた結果、とんでもない非道があきらかになりました。それ以降、この言葉は、奴隷がひどい主人の許から離れたいときのSOSとして意味を持つようになったのです」
「おい、ちょっと待て、俺がいつ、あなたにひどい扱いをした?」
「優しくしていないでしょ?」
「ハア? 三食昼寝付きの生活をしておいて、よくそんなことが言えるものだ。何を食ったらそんな考え方になるんだよ」
「いいのです。私はフェルディナント……シンセン公爵の許に行くのです」
「行ったところで、相手にされないと思うけれど……」
「どうとでもなりますし、どうとでもします」
「……なんて強気な」
「あなた、私が公爵様にフラれると思っているでしょう?」
「……人の心を読まないでください」
「あなたのそういうところが嫌いなのです。……まあ、いいでしょう。私の、天巫女の力を使えば、公爵の心などすぐに掴めるのです」
「え? というと?」
「至近距離にならなければなりませんが、距離さえ詰められれば、天巫女の能力で、彼の心を操ることができるのです。ほら、そこで眠っている小娘のように……。元々は、暴れる死者を大人しくさせて天上界に導くための能力ですが、背に腹は代えられません」
「あの……激しく間違っている気がするのですが?」
「仕方がありません。目の前にフェルディナントがいるのですから」
「……大丈夫なの?」
「大丈夫です。私の辞書に、失敗という文字はありませんから。失敗しない天巫女ですから」
「……叩きてぇ」
「は? 今何か? ……まあ、あなたが何と言おうと、奴隷があの言葉を発した以上、宰相はそれを聞き届けねばなりません。残念でしたね。あなたの傍から、かわいい天巫女ちゃんがいなくなります。それもこれも、あなたが私を優しく扱わなかったからです。これから私は、公爵様の許で、幸せに暮らすのです」
「だから、本当に大丈夫なの?」
「しつこいですね! 私は失敗しない……」
「いや、あなたは、俺を監視するために神様から遣わされたのではなかったのですか? 公爵の許に行けば、そのミッションは達成できませんけれど、本当にそれでいいのですか? いや、俺は別に構いませんけれど」
俺言葉に、クレイリーファラーズは驚きの表情を浮かべた。そして、両手で頭を抱えたかと思うと、ギュッと目を閉じて天を仰いだ……。




