第二百七十七話 何をした?
シンセン公爵は、あいかわらず取り巻きに周囲を囲まれている。クレイリーファラーズのいる場所からは、かなり遠い位置にいる。
「すみません、はい、ちょっとごめんなさい」
そう言って、手刀を切りながら彼の許に行くのは簡単だ。しかし、それはデメリットしかないことは、クレイリーファラーズには十分に分かっていた。あの公爵が好むのは、控えめで知的な女性だ。行儀の悪い女性は最も嫌う。彼をオトすのには、ブリっ子をするのが一番手っ取り早いのだ。
だが、今の状況はいただけない。彼との距離が離れすぎている。何とかして、彼をこちらに来させなければならない。
クレイリーファラーズはその自称聡明な頭脳で、公爵をじっと観察する。そのとき、彼の肩に止まっているドラゴンが目に入った。
まるでコウモリのようなドラゴン……。キョロキョロと周囲を見廻して落ち着きがない。クレイリーファラーズは直感的に、このドラゴンは使えると判断した。彼女は両手を前に出して、まるでファイティングポーズのような格好を取った。そして、アゴを前に突き出して、公爵の肩に止まっているドラゴンを睨みつける。
フッとドラゴンと目が合った、彼女は小刻みに顔を上下させながら、小さな声で呟く。
「来いっ。来い、コノヤロー」
ドラゴンはじっとクレイリーファラーズに視線を向けている。彼女はさらに左手の人差し指をクイクイと動かしながら、さらに呟く。
「来い、コノヤロー。怖ぇのか? お前、ドラゴンだろ? ビビッてんのか? 来いよ、ヘタレドラゴン」
「キシャー! キシャー! キシャーァァァァー!」
クレイリーファラーズの意図を察したのか、ドラゴンが公爵の肩の上で突然叫び声を上げた。バタバタと羽をはばたかせながら、クレイリーファラーズに飛びかかろうとしている。だが、足が縛られているためか、飛ぶことができないようだ。ドラゴンは体をクレイリーファラーズに向け、大きな口を開けて威嚇している。
「どうしたのだ。静まれ。静まるのだ、ゲーア」
公爵はドラゴンの頭に手を載せ、何とかして宥めようとしている。だが、ドラゴンは落ち着くどころか、必死で飛び上がろうとしている。そのとき、クレイリーファラーズは公爵と目が合った。
その瞬間、彼女はファイティングを解き、全力でブリっ子をする。両手をぎゅっと握り締め、上目遣いに公爵に視線を向ける。
公爵はもう一度ドラゴンの頭に手を載せながら、ゆっくりとクレイリーファラーズに向かって歩き出した。
「あのっ……公爵様……」
唖然とした表情を浮かべる周囲の貴族を手で制しながら、彼はどんどんその距離を縮めてくる。クレイリーファラーズの心が高ぶっていく。さあ、腕の見せ所だ。
「キシャーァァァ!」
公爵がクレイリーファラーズのすぐ目の前まで来たとき、彼の肩に乗っているドラゴンが、身を乗り出して牙をむいた。その様子に、彼女はわざとらしく怖がった振りをする。
「静まれ。静まらんか、ゲーア」
公爵の低い声が響き渡る。彼はドラゴンの頭を掴むと、ゆさゆさと左右に動かした。すると、ドラゴンは落ち着きを取り戻した。だが、目は吊り上がり、羽を上下に動かしていて、怒りを必死で抑えているのは明らかだった。
「あっ、ありがとう、ございますぅ」
クレイリーファラーズは両手を胸の前で組み、まるで神に祈るようなポーズを取る。当然、上目遣いだ。
「とっっっても、怖かったですぅ。ありがとうございます、公爵様ぁ」
「貴様は確か……新侯爵殿の……」
「はい。ノスヤ・ヒーム……じゃなかった、ノスヤ・ムロウス?・ユーティンに仕えます者で、クレイリーファラーズと申しますぅ」
「……クレ?」
「クレイリーファラーズと申します」
「フム。それでそなた、何をした?」
「え?」
「何をしたと聞いておるのだ」
「何をしたとは、何をしたのでしょう?」
「とぼけるな。そなた、我が育ておるゲーアに、不届きを働いたであろう」
「え? な? お? へ?」
公爵は知っていたのか? いや、そんなことはないはずだ。自分が呷ったときは、公爵は全く別のところに視線を向けていた。自分の煽りには気づいていないはずだ。
混乱するクレイリーファラーズ。だが、公爵は真っすぐな視線を彼女に向け、毅然とした態度で言葉を続けた。
「我のゲーアが公の場で怒りをあらわにすることはない。ゲーアは誇り高きワイバーンだ。我に恥をかかせるようなことをするドラゴンではない。にもかかわらず、ゲーアはそなたに激しい怒りを向けておった。余程のことされたのであろう。違うか?」
「そっ、そっ、それは、それはですね……」
「言え。ゲーアに何をした」
「なっ、何もしていません」
「何?」
「ずっ、随分と、キョロキョロと落ち着きがないなと思って、見ていたのです。見ていたのです。ええ、見ていただけです」
「ゲーアは我の友だ。このように多くの者が集まる場では、我を守ろうと常に周囲を警戒してくれているのだ。そなた、ゲーア、もしくは我に、殺気を向けたのではないか?」
「そ……そんな……ことは……」
公爵の視線が鋭さを増している。クレイリーファラーズは心の中で唸っていた。
……これ、マジでヤバくね? どうするんだよ。こんなときだというのに、あの男はいないし、目の前にはスケベジジイとババアしかいないのだから、どうしようもないわ。
クレイリーファラーズは、公爵の眼をじっと見ながら、ゆっくりと息を吐きだす。
……仕方がない。奥の手を、使うか。
彼女の右手が、ギュッと握られた。




