第二百七十六話 機を伺う
控室に入ってきた瞬間、ヴァッシュが俺の胸に飛び込んできた。そのままものすごい力で抱きしめられる。俺も、彼女の細い体を力いっぱいに抱きしめる。
楽しかった。これほど楽しく踊れたのは、初めてだった。
踊りながら、横を見なくてもヴァッシュの動きが手に取るようにわかった。その動きに合わせていくと、あるところで驚くほどピタリと俺たちの動きが合った。踊りながら、なるほど、このダンスには、こういう意味があったのかと気付いたほどだ。
周囲の人々など、全く気にならなかった。ただひたすら、ヴァッシュと踊る時間が楽しく、ヴァッシュだけを考えながら踊ったのだ。それは、彼女も同じだったようだ。
「さいっ……高! 最高よ! 最高だったわ!」
「俺もだ。俺もだよ、ヴァッシュ!」
一旦体を離して、互いの顔を見つめ合う。相変わらず、ヴァッシュはかわいい。そして再び、俺たちは抱き合った。
……ふと、拍手のようなものが聞こえた。耳を澄ませると、一定のリズムを刻みながら手拍子が鳴っているようだ。これは一体?
「……呼ばれているわ」
ヴァッシュが俺の胸の中で口を開いている。体を離すと、彼女は興奮した表情を浮かべている。
「行く?」
「……ああ」
俺たちは手を繋いで、クルリと向き直る。いつの間にか、執事服を着た男性が扉の前に控えていた。俺は彼に向けてゆっくりと頷く。男はスッと一礼して、部屋を出て行った。俺たちは扉の前で控える。
ゆっくりと扉が開いた。俺はヴァッシュと共に、再び舞台に戻る。
全員が起立していた。俺たちが姿を見せると、万雷の拍手に変わった。何だか、拍手が降ってくるような気がして、ふと見上げると、二階の通路に控えていたメイド服に身を包んだ女性たちや、執事服を着た男性たちも拍手をしてくれている。そんな人たちに向かって、感謝を込めて手を振る。
再びヴァッシュが手を繋いでくる。そのままグイッと引っ張られる形で、俺はその場を後にして控室に戻った。
「もう少し、何か……」
「あれでいいのよ」
そんなことを言いながら、ヴァッシュは机の上に置かれた水をグラスに注ぎ、それをグイッと飲み干す。
「美味しいっ!」
眼を閉じて天を仰ぐその姿も、美しい。俺も彼女に倣って、水を含む。……美味しい。どうやら、カラカラに喉が渇いていたようだ。水を飲んで初めて気が付いた。細胞の一つ一つに水がしみ込んでいくような感覚を覚える。俺は再びグラスに水を注いで、それを飲み干す。
ふと見ると、ヴァッシュが満面の笑みを向けている。彼女は両手で俺の手を握った。
「最高、最高だったわ、あなたのダンス」
「俺もだよヴァッシュ。最高だった」
「大成功ね」
「ああ」
俺たちは再び抱き合った。
◆ ◆ ◆
会場内はまだ、興奮に包まれていて、人々のざわめきが収まらずにいた。皆、驚きの表情を浮かべながら、ノスヤとヴァシュロンのダンスを口々に褒めたたえている。ユーティン家の冷や飯食いが、新しく侯爵に任じられたことを疎ましく思っていた者、その能力に懐疑的だった者も、すべてがノスヤに虜になっていた。だが、そんな中でただ一人、苦々しそうな表情浮かべている者がいた。ユーティン子爵家の当主であるニタクだった。
弟、ノスヤに恥をかかせる計画が失敗してしまった。演奏を担当している王立楽団の指揮者であるカームは、ニタクの友人だった。その彼に、ピュアリッツエを演奏した後に、アリア・テーゼを演奏するように言い含めていたのに、それが完全に裏目に出ていた。それどころか、周囲の貴族たちは自分に妙な視線を向ける者もいた。
皆、どうしていきなりピュアリッツエを演奏したのか、という疑いの視線を向けてきていた。ダンスの苦手な弟で、皆の視線が集中すると、踊れない者がさらに踊れなくなる……。だから、皆の視線を逸らせたのだという、当初用意していた言い訳が全く役に立たなくなってしまった。
彼は集まりつつある周囲の視線に耐えかねていた。一刻も早くこの場を離れたかった。だが、彼に与えられた席は、出入り口から最も離れた場所だった。この部屋を出るためには、満座の貴族たちが座る席を横切らねばならない。今はそのタイミングではない。ニタクは全身に脂汗をかきながら、退出の機を伺うのだった。
◆ ◆ ◆
一方で、会場の隅では、虎視眈々とタイミングを計っている者もいた。クレイリーファラーズだ。彼女は目の前で喜びの声を上げるパルテックとハウオウルを見ながら、シンセン公爵の動きに注目していた。彼も他の貴族と同じく、起立をしてノスヤのダンスに敬意を表している。
……シブい。やっぱり、シブい顔だ。うん、お姫様抱っこを、させてやってもいい。
彼女はグッと片手を握り締めながら、コクリと頷く。今夜こそ、お前を、オトしてみせる……。とそんな歌があったなと思いながら、公爵の動きを観察する。
彼は多くの貴族に囲まれて、何やら話しかけられている。表情を変えることなく、ゆっくりと頷くその姿は、落ち着きと迫力を感じさせる。
……何とかして、こちらにあの方を来させられないかしら?
クレイリーファラーズの自称、天才的な頭脳が、フル回転を始めた。




