第二百七十四話 やるわよ!
ニタクは俺の戸惑いをよそに、繊細な手つきでハーブを演奏し始めた。曲目は……全くわからない。
「……ピュアリッツエ」
ヴァッシュが小さな声で呟いている。思わず彼女の方に視線を向ける。
「愛する人を失った、悲しみの曲だわ。舞踏会の幕開きに、この曲が演奏されるなんて珍しいわ」
「そうなの?」
「大抵は、舞踏会が終わるときか、休憩のときに演奏されるのだけれど……」
ヴァッシュ曰く、舞踏会には色々と仕来りがあり、会の開始や休憩、終わりのときは、それ用の曲が演奏されるのだという。特定の曲が決まっているわけではないが、大抵は、会の始まりのときは、厳かな曲か、もしくは楽しげな曲が演奏されることが多く、休憩や閉会のときは、どちらかというと少し悲しげな曲が演奏されることが多いのだという。
ヴァッシュは少し不安そうな面持ちで、俺の近くにやってきた。彼女はスッと顎をしゃくって俺をのぞき穴からどかせると、入れ替わりにそこを覗き始めた。
彼女はしばらく無言のまま会場を眺めていたが、やがて、大きなため息をつくと、ゆっくりとその場所から離れて、元の席に戻った。
「ヴァッシュ……」
「完全な、嫌がらせね」
「……」
「もう一度、外を見てみるといいわ」
彼女に勧められるまま、もう一度、のぞき穴から会場を眺める。ニタクは心を込めて演奏を続けている。そんな彼に注目している人たちはわずかで、皆、足を組みながら隣の人と話をしていたり、席を立って会場の隅で話をしている者たちもいたりした。そのどさくさに紛れる形で、クレリーファラーズが料理をパクついている。まだ食べているのか。屋敷で結構食べたんじゃないのか? ……あ、むせているよ。何をやっているんだ? おや、誰かクレイリーファラーズに話しかけている。あ、あれは、パルテックさんだ。腕を掴まれて、ハウオウルがいる所に連れて行かれている。どうやら、そこで、注意されているようだ。ナイスだ、パルテックさん。
俺は思わずグッとこぶしを握る。そのとき、ニタクの演奏が終わった。彼はスッと立ち上がって一礼すると、スタスタと会場を後にしていった。
「ちょっとどいて」
ヴァッシュが小走りに俺の許にやって来て、再びのぞき穴から会場内を眺める。彼女の雰囲気が変わっていくのが背中越しによくわかる。
「……ハープを片付けているわ」
誰に言うともなく呟く。俺は黙ってヴァッシュの背中を眺める。
「……」
彼女は無言のまま振り返り、じっと俺に視線を向けた。
「大きなハープを片付けているわ。けっこう時間がかかりそうね……。皆、休憩だと思っているわ。かなり多くの人が席から離れてしまっているわ」
「……まあ、皆が席についてから、出て行けばいいんじゃないかな」
「そうね」
出鼻がくじかれてしまって、緊張感がなくなってしまった。二人で同時にため息をつく。そのとき、突然、曲が鳴り響いた。これは……?
「アリア・テーゼ!」
ヴァッシュが大きな声で叫びながら立ち上がる。そうだ。これは俺たちが踊る曲だ。いきなり、どうしたんだ?
気が付くと、ヴァッシュがのぞき窓から会場を観察している。
「……みんな、席から離れてしまっているわ」
「ヴァッシュ……」
「私たちにこんな意地悪をするなんて……。信じられない」
再び俺に振り返った彼女の表情には、明らかに怒りの感情が現れている。
「誰も見ていないところで、私たちを躍らせて、恥をかかせようとしているんだわ。そんな中で、私たちを動揺させて、失敗させようとしているんだわ」
彼女はクルリと俺に背中を向けたかと思うと、二度、ゆっくりと深呼吸をする。もうすぐ、俺たちは入場しなければならない。この前奏が終われば、会場に出て行かねばならないのだ。
ヴァッシュは必死で感情を落ち着けようとしているように見える。ダンスは二人の息が合っていなければならないと、常日頃から俺に言っているのだ。そんな自分が心を乱しているのは、許せないのだろう。
彼女の気持ちはわからなくはない。寸暇を惜しんで練習してきた俺たちのダンスを、皆に見せたかったのだろう。だが、会場内は完全にダレきっている。このまま出て行っても、俺たちがササッと踊ってしまうだけで、ここに集まった人々の印象には残らないだろう。
でも、それでもいいじゃないか。
皆が見ていようと見ていなかろうと、俺たちはこれまでやってきたことをやればいいのだ。他の人たちがどう見ようと、俺たちには関係のない話だ。ニタクが意地悪をしてきたのは、少し、許せないが、そんなことで俺たちが浮足立つのは、あの男を喜ばせるだけだ。淡々と踊って、堂々と引き上げて来ればいいのだ。そして、ハウオウルやパルテックと一緒に、シーズの屋敷に帰ればいいのだ。あとは、美味いものを食って寝ればいい。
そんなことを考えていると、ヴァッシュが突然、クルリと振り返り、キッ、と俺の顔を睨みつけた。
「いいわね! やるわよ!」
そう言って彼女は、再び俺に背中を向けた。あの……やるって、何をやるんだ??




