第二百七十三話 のぞき穴
結局、あれから三十分ほど経ったが、クレイリーファラーズは戻ってこなかった。俺の心配をよそに、二人は会場に向かうと言って立ち上がった。
「それではご領主様、ワオンちゃんをお預かりしましょうか」
パルテックさんが両手を差し出してきた。これから二人でダンスを披露するのだ。そのときに、ワオンを抱いて踊るわけにはいかない。俺は、お願いしますと言って、ワオンを預ける。
「きゅぅぅぅぅ……」
「ワオン、大人しくしているんだぞ」
「ンきゅ」
俺と離れるのが寂しいと言わんばかりの表情を浮かべているので、俺としても離れがたいが、仕方がない。ワオンは、パルテックさんに抱かれて、そのまま部屋を後にしていった。
「失礼します」
二人が出て行くのを見計らっていたかのように、執事服を着た若い男が入室してきた。彼は恭しく一礼すると、シャンを背を伸ばして、まるで、宣言するかのように口を開いた。
「そろそろお時間となりましたので、侯爵様。会場にご案内いたします」
彼の言葉に促されるように、俺とヴァッシュは立ち上がった。
案内されたのは、舞台裏だった。舞台裏と言っても、ステージセットや道具が置かれたような所ではない。いわゆる、ちゃんとした控室で、言ってみれば、豪華な楽屋のような部屋だった。そこには鏡があり、豪華はソファーと机が置かれていた。
「何かございましたら、お手をお鳴らし下さい」
俺たちがソファーに腰かけると、それを待っていたかのように、メイド服に身を包んだ若い女性が、俺たちに紅茶のようなお茶を出してくれる。彼女と、俺たちを案内してくれた男性が下がってしまうと、部屋の中には、俺とヴァッシュと二人っきりになってしまった。
キョロキョロとあたりを見廻してみる。どうやら、他の出演者はいないようだ。
「何を見ているのよ」
ヴァッシュが突然口を開いたので、体がビクッと震える。
「いっ、いや……他の出演者は、いないのかな……なんて」
「いないわよ。この舞踏会は私たちが主役なの。まず、私たちが踊って、その後で皆が躍る舞踏会が始まるのよ」
「え? 俺たちが最初に踊るの?」
「そういうものよ?」
「ああ……そうなんだ……」
そうしたことは、全く教えてもらっていなかった。てっきり、何人かが先に踊って、最後に俺たちが踊るものだと思っていた。ああ……お腹が痛くなってきた……。
ところで、会場はどんな感じになっているのだろう。会場の下見が全くしていないので、よくわからない。そのことをヴァッシュに質問してみたが、舞踏会の会場はどこも同じという、目の覚めるような答えが返ってきた。
「あの扉の向こうが、会場のはずよ。きっと、扉にのぞき穴があるから、心配だったら、そこから覗いてみればいいんじゃない?」
ヴァッシュが指さす方向を見ると、確かに、ひときわ大きな扉があった。どうやら、ここが入場口のようだ。俺はそそくさと扉に向かい、のぞき穴を探す。……あった。
まるで、新聞受けのようなのぞき窓が作られていた。恐る恐るそこを開けて見ると、会場の全体が見渡せた。
目の前は、広いホールになっていて、中央が開けられている。おそらくここで踊るのだろう。その左右には、丸いテーブルと椅子が置かれ、その周囲で美々しく着飾った人々が談笑している。そして、その奥には……どうやら、食事が提供されているようだ。いわゆるバイキングのような形式になっているようだ。
ただ、そこには全くと言っていいほどに人はいない。……いや、一人いた。クレイリーファラーズだ。
彼女はキョロキョロと周囲を見廻しながら、何故か、クルクルと廻りながら食事が供されるテーブルを左右に移動している。一体何をやっているんだと思って見ていると、どうやら、くるくると廻りながら、料理が盛り付けられた皿を取り、素早く食べているようだ。ずいぶんと器用な食べ方をしているが、怪しさが半端ではない。人々があそこに近づかないのは、そのせいもあるかもしれない。そして、そのさらに奥には、ハウオウルとパルテックさんが控えていた。何もあんなに隅の方で小さくならなくてもいいだろうに……。いや、二人はワオンを見ながら、仲良く話し込んでいる。これはこれで、いい感じだ。
相変わらず、クレイリーファラーズはクルクルと廻りながら、テーブルを行き来している。突然、ピタッと止まって、こちらに背を向けているが、そのときに食事を掻き込んでいるのだろう。不審者として、連れ出されなければいいのだが。
そんなことを考えていると、何やら、執事服を着た男たちが、踊るためのスペースに集まり始めた。彼らは椅子を一脚持ち出してきて、それを真ん中に置いた。さらに、何か、楽器のようなものを持ちだしてきて、椅子の隣に置いた。あれは……ハープか?
しばらくすると、一人の男が、片手を挙げながら椅子に向かって歩いてきた。このオッサン、どこかで見たなと思っていると、何とそれは、兄であるニタクだった。彼はどっかりと椅子に座ると、ポロポロと楽器を鳴らし始めた。
……ちょっと、こんなイベント、聞いてないよ? 一体、何が始まるんだ?




