第二百七十二話 ホッと一息
「どうぞどうぞ。まずは、奥方様、お座りになって下さい」
小太りで、小柄な女性は、笑みを浮かべながら、ヴァッシュに座るように促した。彼女はゆっくりと椅子に座る。
「お初にお目にかかります。衣服係を勤めますマロンと申します。どうぞ、今後ともお見知りおきを願います」
マロンと名乗る女性は、鏡越しにそう言って挨拶をした。そして、失礼しますと言って、ヴァッシュの髪に手を添える。
「うーん。特に大きく変える必要はないかしら? すでにご準備は万端にされているようですねー。お衣装は……そのままで踊られる?」
「衣装の変更はなしね。ただ……踊っている最中に髪型が崩れないようにしてちょうだい。それに、少し化粧も直した方がいいかもしれないわね」
まるで、旧知の間柄のようにヴァッシュがマロンと会話している。マロンは、すべての意を汲んだかのように、テキパキとヴァッシュの髪の毛を直していく。二人は何やら相談をしていたが、結局、踊るのに邪魔にならないようにということで、ヴァッシュの髪の毛を結い上げることにしたようだ。これはこれで、とてもかわいらしい。俺は、ヴァッシュの新しいかわいらしさを発見して、心の中でガッツポーズをする。
「さて、侯爵様はどうかしら?」
気付けば、ヴァッシュのおめかしは終わっていて、マロンは俺に視線を向けている。俺はその必要はないと言いながら、ヴァッシュに視線を向ける。
「彼は別に大丈夫だわ。特に直してほしいところは、ないわね」
その言葉に、マロンは笑顔で頷く。彼女は、この部屋の隣は衣裳部屋になっていて、大抵の衣装は用意されているといって、俺たちを案内した。広い部屋にドレスやスーツらしきものが整然と仕舞われている。ヴァッシュはそれらを眺めていたが、やがて、ありがとうと礼を言って部屋を後にした。
マロンは、そのまま俺たちを衣裳部屋とは逆の部屋に案内した。彼女が扉を開けると、そこには何と、ハウオウルとパルテックがいた。
「先生……。パルテックさん……」
思わず笑みがこぼれる。この二人の顔を見ると、何だか安心する。そんな俺の様子を、マロンはにこやかに眺めていたが、やがて、用事があれば隣にいますので、手を鳴らしていただければ、すぐに参りますと言って、部屋から下がっていった。
「まさか、先生やパルテックさんに会えるとは思わなかったですよ」
「いやなに、城に着いたら、ここに案内されたのじゃ。ご領主が突然入ってきたので、少し驚いたぞい。……一応、論功行賞の話は聞いた。侯爵に任じられて、大出世じゃの。城の者から、くれぐれも粗相のないようにと釘を刺されたぞい。まずは、おめでとうございますじゃの、侯爵様。このハウオウル、我がことのように、嬉しゅうございます」
そう言って、ハウオウルはカラカラと笑う。その隣で、パルテックは、おめでとうございますと言って、深々と頭を下げた。
「そんな……やめてください……。今まで通りで結構ですから。変に改まれると、こっちが恐縮してしまいます」
「まあ、とはいえ、ご領主は西キョウス地方の統監となられたのじゃ。広大な領土を管理せねばならぬから、これからが大変じゃぞい」
「それは、シーズからも言われたのです。ただ、俺にはまだピンと来ていないのです。一度、ラッツ村に戻ってからゆっくり考えようと……」
ハウオウルは笑顔で頷いている。一方で、パルテックは不安そうな表情を浮かべている。
「俺は、できればあのラッツ村で今後とも暮らしていきたいと思っています。今のところ、あそこを動くつもりはないので、その点は、安心していただければと思います」
俺の言葉に、パルテックの表情が緩む。どうやら、俺とヴァッシュが遠くに行ってしまうのではないかと考えていたようだ。
そんな話をしていると、部屋の扉がノックされ、若い男が入室してきた。彼は俺たちを見ると、侯爵へのご就任、おめでとうございますと言って腰を折る。そして、まもなくパーティーが始まるので、あと十分ほどしたらお迎えに上がりますと言って、部屋を後にしていった。
「それじゃ、儂らも会場に向かうとするかの」
「先生、会場までの道順は、わかるのですか?」
「わかるもなにも、この部屋の隣が会場じゃ。今、あの男が入ってきた扉を出て、すぐ前の部屋が会場じゃ。この部屋に案内する前に、儂らは会場を案内されてきたのじゃ。なかなか広い会場じゃよ。すでにもう、大方の貴族が集まって、情報交換に精を出しておる頃じゃよ」
「なるほど、そうですか……」
そこまで言って、俺はハタと気付く。そう言えば、一人、忘れていないか……? クレイリーファラーズだ。あの天巫女は、どこに行ったんだ? 何だか、悪い予感がする。
「あの……クレイリーファラーズさんは……どちらへ?」
「ああ。あのお嬢ちゃんなら、すでに会場に行ってしもうた」
「え?」
「この部屋に着くなり、会場の下見に行ってくると言って部屋を出て行ってしもうた。腹が鳴っておったので、おそらく、会場で出されている食事をつまみに行ったのじゃろう」
そう言って、ハウオウルは笑った。おいおい、大丈夫か? 会場内で何か、やらかしているんじゃないだろうな……。




