第二十六話 健全な心と体
抜けるような青空の下、俺は心地のいい風を浴びながら草原に寝転がっている。そして、その隣には、先日、家庭教師に就任したハウオウルが、俺と同じ姿勢で寝転がっている。
「ええ風じゃの~」
「本当ですね……」
耳をすませば、森の中から鳥のさえずりが聞こえてくる。何て平和なひと時だろう。俺は今、人生の中で一番平穏な生活を楽しんでいる。
「……まだですか?」
そんな俺の癒しの時間は突然無粋な一言で破られてしまった。言うまでもなく、クレイリーファラーズだ。彼女は腕を組みながら俺の頭の上で仁王立ちをしている。
「まだって、何がです?」
「オヤツですよ! オ、ヤ、ツ!」
「自分で作ればいいじゃないですか」
「……」
「あ、野イチゴあったでしょう? あれ、甘くておいしいですよ?」
「イモ」
「何?」
「ふかふかのおイモが食べたいのです!」
「……面倒くせぇ」
「お、イ、モ!」
「イモばっかり食べていると、オナラが止まらなくなりますよ? てゆうか、この間からイモばっかり食べているじゃないですか」
「まあまあ、ご領主」
ハウオウルが空を見ながら笑顔で話しかけてくる。
「せっかくじゃ、イモを作ってあげなされ。儂も、食べたいのぅ」
「先生がそうおっしゃるのなら……」
俺は渋々立ち上がる。クレイリーファラーズは一切表情を変えないが、嬉しそうな雰囲気を全身から醸し出している。
「ホッホッホ。お嬢ちゃん、たまには下着を替えた方がええの。白ばっかりじゃつまらんじゃろうが」
クレイリーファラーズは、何故か下着は白色しか身に付けない。ここだけは全く揺るがないのだ。一体なぜそこまでこだわるのか俺にはわからないし、知りたくもないのだが。しかしふと彼女の顔を見ると、驚くほど真っ赤になっている。
「……あのジジイ、天巫女の下着を盗み見するとは、いい度胸だわ」
テルヴィーニからサツマイモを取り出していると、クレイリーファラーズの殺意がこもっているかのような呟きが聞こえてくる。俺は一切聞こえないふりをして、淡々とふかしイモを作る準備を始める。
「きっと……あのジジイは、いつの日か一線を越えてくるわ。私を見る目が飢えた獣のようですもの……。だから言ったのです! あんなジジイはダメですと! やっぱり……」
「イケメンを雇う気は、ない」
「それはひがみというものですよ~。それに、あの方はBランクの方ですが、それも30年前になって以降、冒険者としては引退状態にあると言うではありませんか。昔はいざ知らず、今は腕の衰えた老人ですよ? あんなひとを家庭教師にしてしまって……どうするつもりですか?」
「どうするも何も、俺は、ハウオウルさんでいいのです」
「じゃあ、私があのジジイに襲われてもいいというのですか!?」
「これは男の勘ですが……。それは、たぶん、おそらく、きっと、いや、ほぼ間違いなく、天地がひっくり返っても、ない話だと思いますよ?」
大体、本気で襲う気があるのなら、今頃とっくに襲っている。気があるのであれば、おさわりの一つもしているだろう。ハウオウルは単に、クレイリーファラーズをからかっているだけに過ぎないのだ。
だが、そんなことは彼女にはわからないのか、まるで汚物を見るような目でハウオウルを睨みつけている。そんな目で見るから、彼の返り討ちにあうのだ。
俺が彼の何が気に入っているか。一切無理強いをしないのだ。
俺は彼を家庭教師に選んだ直後から、厳しい修行を想像していたし、覚悟もしていた。だが、意外なことに彼は、そうした厳しい訓練を一切俺に課さなかった。それよりもまず、心を落ち着けろ、心に余裕を持てと俺に教えてくれたのだ。
彼の教え方は一言で言えば、「健全な肉体と心に健全な魔法は宿る」というものだった。そのため俺は日々、色んな「癒し」を実践している。
「大体魔法使いになる連中は、強い魔物を倒したいという欲求で魔法の腕を磨く。そうしたヤツはある程度までは伸びるが、大成はしないものじゃ。魔法を扱う上で最も大切なことは、脱力。自然体が大切なのじゃ。まずはご領主さまが最も自然に脱力することをやって見なされ。その感覚を覚えられたら、魔法なぞすぐに使えるようになりますぞ」
こうして俺は、ハウオウルがやって来る午後の時間は、春の木漏れ日の中でゴロンと寝っ転がってノホホンと過ごすことが多くなった。ゆっくりと息を吐き出してから、また、ゆっくりと息を吸い込む。空気が美味い。本当に時が止まればいいのにと思えるひとときだ。
俺は日が暮れるまでそうしていたいのだが、ところがどっこい、クレイリーファラーズはそれを許してくれなかった。毎日毎日飽きもせず、俺にオヤツを作れとねだってくる。テルヴィーニには、りんごなどの果実も豊富に蓄えられているのだが、何故かそれを食べようとはしない。いや、食べるには食べるのだが、それは夕食後と相場が決まっている。何故か、ふかしイモ、大学芋、焼きイモをローテーションで求めてくる。イモ好きにもほどがあるというものだ。
だが、ハウオウルもイモは好きみたいで、彼は俺の作るオヤツを美味い美味いと言って食べてくれる。そのため、俺も悪い気はしないのだが。
そんな生活を送ること三週間、ハウオウルの家庭教師としての期限があと一週間に迫ったとき、彼はまじめな顔をして口を開いた。
「さて、そろそろええじゃろう。お前さんに、儂の全てを伝授するぞい」
そこには、今までの好々爺然とした男ではなく、ピンと張りつめたような緊張感を漲らせた男が立っていた。俺は思わず唾を飲み込み、彼の次の言葉を待った……。




