第二百四十三話 忘れてちょうだい
クレイリーファラーズが、ジトッとした目でシーズを睨みつけている。やめなさいよ、本当に。ここで悶着を起こすと、面倒くさいことがさらに面倒臭くなる。シーズを見ると、不思議そうな表情を浮かべている。
「ああ、そうか。ノスヤ。これも一つの教育か」
「え?」
シーズは一人、コクコクと頷いている。一体、ヤツの思考回路で、何が起こったんだ?
「フフフ。お前もなかなか変わっているな。奴隷に敢えて身分違いの境遇に置いて、戸惑うさまを見物しようというのだろう? そういうところは、亡くなられた父上とそっくりだ。ハッハッハ……」
そう言ってシーズは笑いながら部屋を出ていった。何なのだ、一体……。
「さ、皆様も。ご案内いたします」
部屋の隅に控えていたキルガがやって来て、退出を促す。俺たちは無言のまま立ち上がった。
「……ニタク様は、本当は、お優しい方なのです」
最初とは打って変わって、キルガが落ち着いた声で呟いた。その背中には、何とも言えぬ寂寥感がにじみ出ていた。
「昔から、あのように気の短いお方でした。シーズ様、ノスヤ様、他のご兄弟様……。皆、ニタク様に当たられておりました。その反面、音楽を愛し、詩を愛するお方なのでございます。シーズ様もノスヤ様もご存じないでしょうが、ニタク様はああ見えて、ハープをお弾きになります。夜、皆が寝静まった頃に、部屋でお一人でハープを弾きながら、ご自分が作った詩を歌っておいでなのです」
キルガは玄関まで来ると振り返り、ちょっと寂しそうな笑顔を見せた。
「兄上様のこと、どうぞ、お見捨て下さいませんように。優秀なシーズ様と常に比較されて、心の拠り所がないのです。そこに来て、ノスヤ様の功績……。そのうち、落ち着けばきっと、ご兄弟笑いながら会えるときも来るかと思います。どうぞ、それまでは……」
そう言って、キルガは深々と頭を下げた。
「にゅ~」
馬車に乗り込むと、ワオンがどっと疲れたといった表情を浮かべていた。
「すまないね。ちょっと緊張させちゃったね。大人しくしていて、偉かったね」
ワオンを膝に抱いて、わしゃわしゃと頭を撫でてやると、とても気持ちがよさそうな表情を浮かべた。その可愛らしい様子は、俺の心を癒してくれた。
「……意外だったわ」
ヴァッシュが、誰に言うともなく呟いた。視線は、窓の外に向け続けている。
「意外……?」
「あなたとシーズ様……。お二人のお兄様ということで、どんなお方かしらと少し期待していたのだけれど……。ちょっと意外だったわ。ああいう人も、いるのね」
「う……うん。ちょっと、ビックリしたな」
「あなたから兄弟の話が全然でなかったのは、こういうことだったのね?」
「あ……いや……」
「まあ、貴族の世界ではよくあることだけれど……。それに、シーズ様が言っていた、ラッツ村が直轄領になるという話……。あれも、一体どうなるのかしら?」
「俺は、領主をクビになるってこと?」
ヴァッシュはじっと俺を見据える。そして、大きなため息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「普通だったら、領地替えね。どこか別の土地を与えられるのよ」
「別の土地って……」
「あなたの場合は、ラッツ村をあれだけのものにしたのだから、相応の領地をいただけるはずだわ。王都に近い、肥沃な土地を持つ土地を与えられるはずよ」
「そんな……」
「いいじゃない。領地が広くなるのは、貴族としては何よりよ。私もあなたの妻として、鼻が高いわ」
「ヴァッシュ……」
「でも、寂しいわね」
「……」
「ラッツ村の人たちは皆、いい人ばっかりだったから……。それに、食べ物もおいしいし……。あの、タンラの木と、ソメスの実が食べられなくなるのも、寂しいわね。何より、あの村は、あなたと出会えた場所だから……。思い出も詰まっているわ。インダークの実家に何かあればすぐに駆け付けられるから、安心感もあったのよね」
「じゃあ、これから宰相の許に向かうんだろ? 俺が宰相と直談判してみるよ」
「無駄よ」
「やってみないとわからないじゃないか」
「無駄ですって」
「いいや、俺は、宰相に直談判する。ラッツ村から俺たちを動かさないでほしい。宰相から条件を聞こうじゃないか。内容次第で……」
「国王陛下からの命令は絶対なの。それを受け入れないとなれば、それは即ち、死を意味するわ。あなたも私も、下手をすれば、シーズ様も、ニタクの義兄様にも類が及ぶわ。あなたの動き方いかんで、多くの人が命を失い、土地を失うことになりかねないのよ? そんなことは、絶対にするべきではないわ」
「ヴァッシュ……」
「ごめんなさい。私がつまらないことを言ってしまったばっかりに……。忘れてちょうだい。きっと、新しい土地でも、いいことがいっぱい待っているわ。期待しましょうよ」
そう言って彼女は、再び視線を窓の外に向けた。その体からは、これ以上、俺とは話をしないという覚悟のようなものがありありと見て取れた。そのために俺は、これ以上彼女に話しかけることができなかった。
しばらくすると、馬車の速度がガクンと遅くなった。気が付けば、広い庭の中を馬車は走っていた。どうやら、宰相、メゾ・クレールの屋敷に到着したようだ……。




