第二百四十一話 ちょいと、お待ちなされ
睨む俺の視線を察したクレイリーファラーズは、少し小首を傾けて、「別に、なにもしていませんよ?」という素振りを見せた。天巫女の力を使ったのはわかる。おそらく、ニタクの頭に、クレイリーファラーズの存在を植え付けたのだろう。なかなか見事なスキルだと思うが、この天巫女の場合、力の使い方を誤る傾向がある。変な副作用が出なければいいが……。
そんなことを考えていると、ニタクの眼の焦点があってきた。どうやら、正気を取り戻したようだ。
「まあ、お前も妻を迎えて、ようやく一人前の貴族として成長したのだ。これから、私も、お前を貴族として接しようではないか」
ニタクが、相変わらず苦笑いのような笑みを浮かべながら話しかけてくる。とりあえず、頭を下げておくことにする。
「まあ、ラッツ村の統治も大変だろう。先の食糧不足で、あの村には多くの者たちが避難していると聞いている。お前ひとりでは手に余ることも多いだろう。そこで、村の管理については、私も関わらせてもらおうと考えているのだ」
「え?」
「年貢の管理をはじめ、村で起こる色々な問題に、お前ひとりでは対処が難しいだろう。そこで、私も共に村の統治に関わろう。それなりに協力はできるはずだ。詳しいことはまた後日、ゆっくりと話をすることにしよう」
「いえ……大丈夫です」
このニタクという男が、一体何を考えているのかがわからない。村の統治に関わる? 何をする気なのだ?
ちょっと頭が混乱してきた。そんな俺に、ヴァッシュが助け舟を出してくれる。
「恐れ入ります。ただ今、村の統治に関わる……と承りましたが、具体的には、どのようなことをなさるのでしょうか」
「まあ、そのことについては、多岐に渡るだろう。それ故、日を改めて話をしよう、そう申しておるのだ」
「不勉強者で、大変申し訳ございません。ニタク様が、一体、何をなさろうとしているのか、私にはわかりかねまして……」
「いや、何も心配することはない。ノスヤの働きは、この私の許に詳しく報告されている。ノスヤにしては、珍しくよく頑張っている。それ故、私は、この者を一人の貴族と認めたのだ。そのために、後日、忙しい中、改めて時間を割いて、ラッツ村のことを話し合おうと言っておるのだ。私とノスヤに任せておけばよいのだ。何も、心配はいらぬ」
「いや、奥方のご懸念は、ごもっともじゃぞい」
ニタクの話に、ハウオウルが口を開く。彼は、長い髭を撫でながら、姿勢を正した。
「いや、このところご領主……ノスヤ様の許には、ラッツ村の利益をかすめ取ろうとする者が多くおいでになるのじゃ。中には美麗字句を巧みに操って、ご領主を騙そうとする者もおりますのじゃ。決して、ニタク殿の言葉を疑うわけではない。疑うわけではないが、そうした輩どもと渡り合ってきた奥方じゃ。明確な答えを求めるのは、自然なことじゃぞい。例えば……の話で結構なのじゃが、村の統治に関わる、とは、例えばどのようなことをなさるのじゃ? 村人たちに交じって、収穫を手伝っていただけるのかの? であれば、助かることこの上ない。何せ、収穫量が多いので、猫の手も借りたいくらいじゃからな……」
「ユーティン子爵家については、この私が責任を負っている」
「うん?」
突然、ニタクが口を開いた。言っている意味がよくわからず、ハウオウルはキョトンとした表情を浮かべている。よく見ると、ニタクの表情から笑みが消えている。
「ユーティン子爵家の当主は私だ。私が、ユーティン子爵家の責任を負っているのだ」
「……すまぬが、仰る意味がわかりかねるぞい」
「ユーティン子爵家の責任は、私が負うのだ。ノスヤは私の弟だ。ユーティン家の一員だ。従って、その責任は、私が負うのだ。それが不満ならば、ここを出ていっていただくことになる」
「あの……ちょっと待ってください」
「お前は黙っていろ」
口を挟もうとした瞬間、ニタクに制された。彼は笑みの失せた顔を俺に向ける。
「お前もお前だ、ノスヤ。この者たちは、爵位も持たぬ者たちだろう。そんな者が、子爵たる私に、かくも無礼なことを言っているのだ。なぜ、止めない? お前の甘さはそこだ。だからこそ、私が直接関わることで、貴族として正しい在り方をお前に身に付けさせねばならない」
「貴族として、正しい在り方?」
「そうだ。お前は舞踏会が開かれる程の成果を残した。それは褒めてやってもいい。だが、貴族としてはどうだ? 爵位を持たぬ者に、こんな無礼な物言いを許している。それはつまり、お前の日常がそうだからだ」
「別に俺は、そんなに畏まった関係は望んでいませんから」
「そこだ! 何ということだ! お前はそれでも、ユーティン子爵家の者か! 愚か者が! もういい! このことは後日、しっかりと話をすることにする。ご苦労だった!」
そう言ってニタクは立ち上がり、その場を離れようとした。
「ちょいと、お待ちなされ」
その声を聞いて、背筋が震えた。ハウオウルが口を開いたが、今まで聞いたことのない声色だった。いつもの陽気な声ではない。声を少し抑えた静かな物言いだが、それが実に恐ろしい。ニタクは一瞬たじろいだが、やがて、頬をピクピクと震わせると、部屋のドアに向かって歩き出した。
「お待たせしました」
突然、聞きなれた声が聞こえた。視線を向けると、そこには、シーズが微笑みを浮かべながら立っていた。




