第二百三十四話 キュート
ふと目を開けると、部屋はまだ薄暗かった。夜が明ける前のようだ。もうひと眠りできるかな。そんなことを考えながら、体を横向きに変える。目の前にはヴァッシュの顔があり、彼女と目が合った。
「……ごめん、起こしてしまったか」
俺の声に、ヴァッシュは小さく首を振る。腕枕をしているので、彼女の髪が腕にこすれてくすぐったい。
「眠れ……なかったのか?」
「少し……寝たわ」
「少し……か」
「眠りが浅いだけよ。寝過ごすよりいいわ。まだ、眠っていていいわよ。朝が来たら起こしてあげるわ」
「いや、いい。俺も起きている」
「無理しなくて……」
彼女がしゃべり終わらないうちに、俺はヴァッシュの唇を奪っていた。少し、驚いたのだろうか、反射的に体を離そうとするが、俺はさらに強い力で抱き寄せる。やがてヴァッシュは、あきらめたように、体の力を抜いた。
いつも思うことだが、彼女を抱きしめていると、まるで、マシュマロを抱いているように感じる。小柄で痩せているのだけれど、とても柔らかいのだ。女性というのは皆、そういうものなのだろうか。ヴァッシュの体から伝わるほのかな温もりが何とも心地よく、俺はしばらくその幸せな時間を堪能したのだった。
◆ ◆ ◆
「おはようございます」
俺たちが着替え終わるのを待っていたかのように、パルテックとクレイリーファラーズが現れる。この人はいつも間がいい。着替えている最中はもちろん、俺とヴァッシュが話をしているときなどでも、それが終わったときに現れるのだ。外で入室のタイミングを計っているのだろうか?
パルテックとクレイリーファラーズが俺たちの前にやって来る。もう、二人が朝、訪ねてくるのは恒例行事のようになっている。この二人は、俺たちの朝食の給仕をするためにやって来るのだ。二人が入室して、しばらくすると、宿の者が朝食を持って来る。
パンにスープ、サラダ、そして、鳥? を焼いたと思われる肉……。特に目を引いたのが、サラダに入れられていた、四角い芋のような食べ物だった。まるで、アボカドのような味がした。何だか、体によさそうだ。
ヴァッシュもワオンも、黙々と食事を食べている。パルテックはそんな俺たちを甲斐甲斐しく給仕してくれる。クレイリーファラーズは……じっと、ジト目で俺たちを睨んでいる。お腹がすいているのだ。
一刻も早く朝食を食べたいのなら、部屋で食べればいいと思うのだが、彼女は頑なに首を振る。曰く、一人で食事をしていると、ハウオウルに襲われる可能性があるとのこと。妄想もここまで来るとある意味で見事と言える。そのため彼女は毎朝、腹を鳴らしながら俺たちの食事風景をじっと眺めているのだ。
「なんだか、懐かしくなるわね」
突然ヴァッシュが口を開く。
「どうしたんだい?」
「ラッツ村での食事が、懐かしくなるわね……」
「美味しくないかい?」
「いいえ。美味しいわよ。でも……あなたが作る食事の方が、私は好きよ。ね、ワオンもそうでしょ?」
「んきゅ」
ヴァッシュの言葉に、ワオンも尻尾を振りながら応えている。あんな適当に作った食事なのにな……。そんなことを思いながら、俺は残りの朝食を口に運ぶ。
「また、時間があるときに、何か作るよ」
「それは無理ね」
食事が終わるころ、そんな話を振ってみるが、ヴァッシュは即座に否定する。パルテックも何とも言えない笑顔で俺たちを見つめている。
「大体、貴族が自分で食事を作ること自体、ありえないことなのよ。ユーティン子爵家の者が料理をしているのを見られでもしたら、あなた自身が本当に貴族かどうか、怪しまれてしまうわ」
「そんなものなの?」
「ラッツ村では、あなたとクレイ……クレイジーさんだけだったから、あなたが食事を作るのもわかるけれど……。でも、本当に最初見たときは驚いたわ。どうしてクレイジーさんが作らないのかしら、村人を召使に雇わないのだろうって。まあ、今はどうしてあなたが食事を作っていたのか、理由がわかったから納得しているけれど、これから行く王都では、絶対に料理なんてしてはいけないわよ」
「う……わかった」
ヴァッシュの鋭い視線が痛い……。俺は彼女の視線に耐え切れず、再び皿に視線を向けると、急いで残りの食事を平らげていった。
「あのですね」
食事が終わり、パルテックと宿の者が皿を片付けて部屋を出ていこうとしたそのとき、クレイリーファラーズが突然口を開いた。一体何事かと思っていると、彼女はニコリと微笑むと、ヴァッシュに向かって、まるで諭すような口ぶりで話を始めた。
「その、クレイジーって呼び方、やめちゃいましょうか」
「どうして? これって……」
「ええ、いいのですよ。いいのですけれど、知っている者が聞けば、あ、あの女性はそうなんだ……ってなりますでしょ? これから王都に入るのです。それを知っている者ももしかしたら……ね? そうならないためにも、その呼び方は、やめましょうか」
「じゃあ、何て呼べば……」
「キュート」
「え?」
「キュートさんと呼んでください。萌えキュンさん、でもいいですが、キュートでも結構です」
「ハッハッハ!」
俺は思わず腹を抱えて笑い転げた。




