第二百二十九話 おかしい
ヴァッシュはバスケットをすぐ近くに置き、水を入れていたポットを手に取ると、盥の水をすくい上げ、それで髪の毛を濡らし始めた。そして、先ほどの石鹸のような固形物を手に取り、それを手の中でこすり合わせると、みるみるうちに泡立ってきた。その泡を丁寧に髪の毛に塗り込んでいく。
そして再びポットを手に取り、盥の水を頭にかけ始めた。頭から豪快に水をかぶるのではなく、周囲が濡れないように、優しく丁寧に水を扱っている。その振る舞いは優雅ささえ感じる。
さらに、長い髪の毛を肩の前に回して、湯をかけて洗っていく。髪の毛を掴んで、少しずつ放しながら湯をかけていく有様は、この世のものとは思えない程の美しさを感じた。
ふと、ヴァッシュと目が合う。彼女は少し顎を上げて、まるで俺を見下すかのような様子だが、その表情は呆然としていて、何だか少し、困っているような雰囲気だった。俺はゆっくりと彼女の後ろに回り、手で盥の湯を掬い上げて、それを彼女の体にかけていく。
「……ありがとう」
「いいや、体が寒いだろうから」
「……」
ただ、湯がパシャパシャとはじける音だけが、しばらくの間、風呂場に響く。ヴァッシュに湯をかけながら、彼女の背中をじっと見ていると、色々なことがわかってくる。背中には二つのホクロが並んで付いていることや、意外と背筋が発達していることなど、見ていて全く飽きない。
「やっぱり、丁寧に接したほうがいいのかしら?」
「んぇあ?」
突然話しかけられたので、声が裏返ってしまう。ヴァッシュはスッと俺から離れて、傍らに置いてあったタオルに手を伸ばして、髪の毛を拭き始めた。盥に座ったまま手早く髪の毛を拭いていく。ほとんど膨らみのない胸が丸見えだが、エロさはあまりなく、どちらかというと、絵画のような美しさだ。おそらく、手際がとてもいいのと、一つ一つの動きが洗練されているからだろう。
突然、目の前に白いタオルが広げられた。ヴァッシュの体が一瞬だけ隠れる。それと同時に彼女は立ち上がり、さっと体を拭いたかと思うと、それを体に巻き付けながら盥から出た。
バスケットから小さなタオルを出して頭に巻き付け、盥の中に手を突っ込んだかと思うと、コックのようなものを抜く。すると、中に張られていた湯が穴の中に流れていく。どうやらこの盥は排水溝とつながっているようだ。今まで使ったことがなかったので、初めてこの構造を知った。
そんな俺に目もくれず、ヴァッシュはさっさと盥の中を残り湯できれいにしていく。そして、すべての湯が流れたのを確認して、クリーンの魔法をかけた。
「あの、家庭教師さんのことよ」
立ち上がりながらヴァッシュは口を開く。スッと俺の向けたその顔は、真剣だった。
「天……巫女? 神様にお仕えする方だから、やっぱりそれなりの敬意を持って……」
「必要ないと思うよ?」
「そうなの?」
「それに、突然態度を変えたら、怪しまれないか? まあ、今までほとんど彼女と話している姿を見たことはないけれど、いきなり、おはようございます、左様でございますか、承知しました、なんて言い出したら、不自然だろう?」
「それはそうだけれど……」
「今まで通りでいいと思うよ?」
「どう接していいのか、迷うわ」
「別に無理して接触することはないと思うよ? 向こうも君に積極的に接してくることはないと思うけれど」
「ふぅ~ん」
ヴァッシュは腕組みをしながら、あらぬ方向に視線を泳がせる。まるで、映画のワンシーンを見ているみたいな美しさだ。
「何て呼べばいいのかしら?」
「うん?」
「呼び捨てにするのは気が引けるし、そうかと言って、家庭教師さんというのも……。あなたと同じ、ええと、その……クレイジーさん? て呼べばいいのかしら」
「ハッハッハ!」
「何がおかしいのよ」
「クレイジーさんか、それはいい。今後は、そう呼べばいい」
「え? クレイジーさんでいいの? 名前が違う気が……」
「いいんだ。クレイジーというのは、『神の僕』という意味だ。まさしく言い得て妙だ。それでいい、まさに、あの人そのものを表している」
「そうなの……じゃあ、明日からは、そう呼ぶことにするわ」
じゃあ、寝ましょうと言ってヴァッシュは、盥の周囲に置いていたものをバスケットに詰めていく。そして最後に、自分の体にクリーンの魔法をかけた。そのとき、俺は彼女を後ろから抱き上げた。
「何?」
「今日はお姫様抱っこで、ベッドまで連れて行くよ」
「……バカ」
ヴァッシュはとても恥ずかしそうな表情を浮かべた。この顔が実にかわいいのだ。俺の心臓の鼓動が再び高くなる。
彼女を抱っこしたまま、寝室に入り、優しくベッドに寝かせる。頭に巻いているタオルを丁寧に取り、そして、体に巻き付けてあったタオルをゆっくりと外す。薄暗いが、彼女のまだ、幼さの残る体が露わになった。俺はその体を優しく抱きしめる。
「……不思議な人ね」
「何が? 神様と通じているからかい?」
「それもあるけれど……。ずっと裸でいたのに、体……温かいのね」
「確かに、ヴァッシュは、さっきお風呂に入っていたのに、もう、冷たくなっているね」
「そんなものじゃないの? あなたが、おかしいのよ」
「そうかもしれないな。でも、この方がいいだろう?」
「……そうね」
「明日の朝まで、ずっとこうして温めてあげるよ」
「……バカ」
俺は再び彼女を抱きしめた。




