第百九十五話 固い決意
「ただ一つ、お願いがあるの」
ヴァシュロンが真剣な表情で語りかける。一点の曇りもない瞳が、俺の心突き刺す。
「このパルテックは……パルテックはここに住まわせて欲しいの」
「姫様……。何を言われるのです! 姫様がおいでにならないのに、この婆がここでお世話になりわけには参りません。私は姫様のお伴を致します」
「パルテック……ダレスアイルまではひと月以上、旅をし続けなければならないわ。無理よ。無理はさせられないわ」
「姫様!」
パルテックから視線を外し、再び俺を見据えた彼女は、ゆっくりと、深く頭を下げる。
「お願い。勝手なことを言っているのはよくわかっているわ。でも、パルテックは帰る場所がないのよ。帝国に戻っても、肩身の狭い思いをしながら生きていかなきゃいけないわ。だから……お願い……」
「あっ……ああ」
「……ありがとう」
俺の声を聞いて、彼女はゆっくりと頭を上げる。その表情は、心底ホッとしているかのようだ。
「ううう……姫様……」
「泣かないでよ、パルテック。別に永遠に別れるわけじゃないわ」
ヴァシュロンはチラリと俺に視線を向けたが、すぐにパルテックに視線を戻して、笑顔を浮かべながら彼女の手を握った。
「魔法学校を卒業したら、必ず呼び寄せるわ。だから、ね? 元気で暮らしてちょうだい」
パルテックは声を殺して泣いている。そんな彼女の体をヴァシュロンは優しく撫でている。
「悪いけれど……色々と準備があるから、遠慮してもらえないかしら?」
一切俺を見ないまま、ヴァシュロンは小さな声で呟いていた。その体からは固い決意が漂っていると同時に、もう、俺とは話すことがないという意思がよく見て取れた。
「一つ、聞いていいかな」
「……何よ?」
「いつ、出発するんだ?」
「準備が整えば、すぐに出発するわ」
「明日にしてもらえないか」
「どうして?」
「パルテックさんも色々と話をしたいことがあるだろう? せめて、出発は明日にしてもらえないか。レークや村の人だって、何も言わずにさよならするというのは……」
「村の人たちには言わないで」
「え?」
「言わないでいてくれたら……。出発を明日にしてもいいわ」
「……わかった」
「ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、俺から視線を外し、背中を向けた。重苦しい沈黙が流れる。
「……悪いんだけれど、遠慮してもらえるかしら」
ヴァシュロンが小さく呟いた。俺は踵を返して部屋のドアを開けた。
「……昼食は」
「……」
背を向けたままヴァシュロンは首を振る。俺は何も言わず、部屋から出ていく。
「夕食は……届けさせるよ。何も食べないのは、ダメだろう」
「レークは寄こさないで。できれば、私たちと関係のない人に、持ってこさせて」
「……わかった」
そう言って俺は扉を閉めた。ヴァシュロンもパルテックも、俺を見なかった。
どこをどう歩いたのか、あまり記憶がない。気が付けば俺は屋敷のダイニングに腰を下ろしていた。
「きゅう……」
ワオンも、彼女を抱っこしているレークも、心配そうな表情で俺を見ている。クレイリーファラーズの姿は……見当たらない。コイツは放っておこう。
「やっぱり、村を出るそうだ」
「……」
「心配するな。行先はわかっている。魔法学校に入るんだそうだ」
「魔法学校……ですか?」
「ああ。ダレス……何とかっていうところにあるそうだ。前々から行こうかどうかを悩んでいたらしい。あ、心配するな。怒りは解けたんだ。ちゃんと許してもらったよ」
俺の言葉に、レークの表情が緩んでいく。肩がガチガチに上がっていたが、ゆっくりとそれが下がっていく。
「心配いらないよ。今日は誰も来ないから、帰って休むといい」
「でも……」
「いいんだ。今日くらいはゆっくり休むといい。あ、パルテックさんはこの村に残るから、安心していい。また、彼女も、助けてあげてくれな」
「はい」
やっと、いつものレークの笑顔に戻った。俺は彼女を家に帰らせると、ワオンを膝に抱きながら、ゆっくりと彼女を撫でた。
「きゅー……。んきゅうー……」
「心配するなワオン。心配は、いらない……。心配は……」
彼女を撫でながら、俺は何とも形容しがたい感情と必死で戦っていた。何だか、心の底から胸をチクチク刺すような、温いお湯のような感情があとからあとから湧き上がってくる。
……つい昨日まで。つい昨日まで、ものすごい達成感と高揚感に包まれていたのだ。24時間前は確か、パーティーが始まるか、始まらないかの時間だったはずだ。それが、僅か一夜にしてこんな感情と戦わねばならないとは。神様と言うのは残酷なことをする。あそこまで上げておいて、いきなりこんな奈落の底に叩き落すことはないじゃないか。何だ、一体。何なんだ?
ヴァシュロンとの思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。初めて出会ったときのこと……。生意気な口ぶり……。ものすごい至近距離まで顔を近づけてきたときのあの表情……。どれ一つとっても、イヤな思い出は一つもない。
……気が付けば、涙が溢れていた。俺は慌てて袖で涙を拭う。
「しゃーないじゃないか。出ていくって決めたんだから。今の俺に何ができるってんだ。止めても止まらないよ、ヴァシュロンは。しっかりしろ、しっかりしろ、俺」
自分に言い聞かせながら、パンパンと頬を叩く。
「ふう~」
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。落ち着け、落ち着くんだ。
そのとき、玄関の扉がノックされた。一体誰だ。パルテックさんかな?
そんなことを考えながら、扉を開けると、そこには大男が立っていた。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
訪ねてきたのは、ティーエンだった……。




