第百八十六話 条約交渉
「ようこそおいで下さいました」
インダーク帝国の宰相、ニウロ・アマダが馬車から降り立った直後、メゾ・クレールは満面の笑みを湛え、両手を広げながら彼に近づいていった。
「はじめてお目にかかります。リリレイス王国で宰相を務めます、メゾ・クレールです」
彼は堂々とした態度で右手を差し出す。その様子を静かな表情で眺めていたニウロ・アマダは、無表情のまま、目の前に差し出された手を握った。
「ご丁寧なお迎え、感謝します」
「ささ、こちらへどうぞ」
メゾ・クレールは、まるで久しぶりに会う友人をもてなすかのように、嬉々とした様子でタンラの木の下に設えられた会談場所に彼を案内する。ニウロ・アマダは相変わらず無表情のまま、彼の後ろを付いていく。
テーブルの傍までくるとメゾ・クレールはクルリと踵を返して、ニウロ・アマダに視線を向けた。どうやら上手側、下手側、どちらに座るのかを彼に選ばせようとしているらしい。その意図を察してか、彼は迷うことなく下手側の席に座る。それを満足そうな表情で眺めていたメゾ・クレールは、ゆっくりと上手側の席に座った。そして、俺たちに視線を向けて、ニコリと微笑んだ。すると、兵士たちが椅子を二脚運んできて、テーブルの近くに置いた。どうやら俺とヴァシュロンの席を用意してくれたようだ。
「きゅううううう」
気が付くとワオンが俺の足元に寄ってきていて、体をスリスリさせている。ああそうだ、思い出した。俺は彼女を抱っこして、笑顔で話しかける。
「そうだそうだ、ワオン。お前も一緒にいるんだったな」
俺はヴァシュロンと顔を見合わせながら、用意された椅子に座る。ワオンを宰相たちに向ける形で、俺の椅子に座らせる。一応、仔竜がいますよということをアピールしておくことで、最悪、二人の交渉が決裂したときの、二人を止めるカードにしようと考えたのだ。
そんな俺の意図を見透かしているのか、メゾ・クレールは俺に一瞬だけ視線を向けたが、やがて満面の笑みを湛えてニウロ・アマダに向き直る。
「ようこそおいでいただきました。抜けるような青空の下、この神の木の前で両国の和平の話し合いができること、心から嬉しく思います」
「不躾ながら」
メゾ・クレールの話を遮るようにして、ニウロ・アマダが口を開く。彼は真剣な表情をじっと宰相に向け続ける。
「条約の話をしましょう。我々の都合を申し上げて恐縮ですが、事は一刻を争うのです。決めるべきことをさっさと決めて、苦しむ民を救いたいのです。お互い、立場の問題もありましょうが、つまらぬプライドを捨てて、腹を割って話をしたいのです」
その一言を機に、メゾ・クレールの雰囲気が変わった。
「いいでしょう。我が国は、貴国と争うことを望んでおりません。未来永劫、両国との間で戦闘が行われぬよう条約を交わすことに同意いたします」
「我が国も同じです」
「では、条約については、当方で作成いたしました。ご確認ください。内容に問題なければ我々で署名し、即座に発行いたしましょう」
シーズが手に持っていた大きな紙をテーブルの上に広げる。それをニウロ・アマダは静かに取り上げ、じっとそれに目を通す。
……静かな、ただ、風の音だけが聞こえるほどの静寂がその場を支配している。
「ジン……ザイ……コウリュウ?」
不意にニウロ・アマダが声を上げる。それを聞いたメゾ・クレールが大きく頷く。
「我がリリレイス王国と貴国、インダーク帝国との間で、戦争放棄の条約を結ぶにあたって提示する条件はたった一つ。貴国と我が国の人材交流です」
人材交流? その言葉に俺はキョトンとなる。
「両国の優秀な人材が交流し合うことで視野が広がり、有能な人材を育成するのです。ひいてはその者たちが国を担っていく……。そんな国同士の付き合いをしたいのです」
「なるほど……承知しました。私から異存はありません」
二人は無言のまま頷き合っている。この雰囲気って……もう、会談は終わりってことか? 所要時間15分? 早くない? もっと話し合うことはないのだろうか?
そんなことを考えている俺に、二人は懐からペンを取り出し、サラサラとその紙に何かを書きこみ、細い管を親指に押し当てている。どうやら血を採取して、血判を押しているらしい。隣のヴァシュロンが小声で教えてくれる。
互いが署名、血判した二枚の紙を二人はじっと確認し、そして、両手を握り合った。どうやら条約は締結されたようだ。
だが、握手をしたそのままの状態で、不意にニウロ・アマダが視線を俺に向けてきた。
「一つお尋ねしたい。我が国が短期間に害虫被害を受けた、その理由を聞きたい」
「……ええと、スズメです」
「スズメ?」
「インダーク帝国のスズメを国外に移動させました。そのため、害虫を食べてくれる鳥がいなくなったことで、帝国は深刻な被害が発生したというわけです」
「……」
ニウロ・アマダはメゾ・クレールの手を離し、無表情のままゆっくりと頷いている。
「寧ろ、この条約は我が国の方に利があるかもしれませんね」
そう言って彼は、力なく笑った。




