第百六十七話 誰がための時間?
「ちょっと困ったことになりましたね」
インダーク帝国の宰相であるニウロ・アマダは、いつものように無表情のまま、まるで呟くような小さな声で語りかけた。彼の前に立ち尽くすのは、帝国王室の侍医長である、ライオネル・リエラだ。彼は、面倒くさそうな表情を隠そうともせずに、宰相を睨みつけている。
「ラッツ村の領主は、何と言って寄こしてきたのです?」
宰相のニウロは、その言葉に反応を示さず、送られてきた書簡を何度も何度も読み返す素振りを見せている。そんな様子をリエラはじれったそうに見つめながら、さらに目つきを鋭くしている。
「……何度見ても整った、美しい字です」
「ですから、何と言って寄こしているのですか?」
「……この字は、本当にラッツ村の領主本人が書いたものでしょうか? だとすれば、この方は非常に素直な心を持った方ですね。おそらく、嘘をつくことは苦手でしょう。と、すれば、この書簡に書かれてある内容を無視するわけにはいきませんね」
「宰相様!」
のらりくらりと質問を躱す宰相に、リエラは思わず声を荒げた。早く、その書簡の内容が聞きたくて仕方がなかったのだ。
ラッツ村をインダーク側に寝返らそうと画策したのは、誰あろうこの、ライオネル・リエラだった。「神の愛を受けし村」と噂されるあの村を手に入れることができれば、帝国はもとより、自分自身の名声も大きく上がることになる。そのための布石を着々と打ち、領主本人にも、インダークに寝返るよう人づてにその旨を伝えていた。彼の中では、領主本人からの返事は、まだ先であると考えていた。おそらく、秋の収穫の状況次第か、もしくは、帝国が本格的に侵攻を開始する頃だろうと考えていたのだ。
だが、予想に反して、領主からの返答は早く、しかも宰相宛にそれを寄こしている。リエラとしては、全く予想もしていなかったことだった。彼の心の中には、動揺と期待がごちゃまぜになった、複雑な感情が渦巻いていた。
そんな彼の心の中を見透かしたように、宰相は頬をピクピクと動かしながらリエラの顔を見据えている。その様子は、リエラの心をさらにイラつかせた。
「宰相様、あなたには時間についての意識が低いようですね? そんな御方が、一国を預かる宰相の地位にいるとは情けない。いいですか? あなたがこの話を早く終わらせていれば、私は陛下のために時間を使えるのですよ? あなたがダラダラとこの話を続けるせいで、本来、陛下に割かれるべき時間が無駄になっているのです。陛下の健康を守る大切な時間が無駄になっているのです。それをお分かりですか?」
心のストレスをぶつけるかのように、刺々しい言葉を宰相にぶつけるリエラに対し、彼は少し驚いたような表情を浮かべ、やがて、ヤレヤレといった表情で口を開く。
「私は、あなたのためを思って、今までこのようなやり取りをしていたのですけれどね。そうですか。そこまで言われるのなら仕方がない。なるほど、確かに、陛下の御ためとあるならば、致し方ありません。むしろ、このような話をせず、陛下に報告をして、早く次の手を打つべきであったのかもしれません。これは、勉強になりましたね」
宰相はそう言うと、スッと姿勢を正してリエラを見据える。その表情はいつものような飄々とした雰囲気ではなく、何か、突き刺さるような、鋭い視線を感じさせるものだった。リエラは思わずゴクリと唾を飲みこむ。
「ラッツ村の領主からの書簡に書かれてあるのは、次の三つです。一つ目は、我が帝国で深刻な農業被害が発生しつつあることを指摘し、それは、ラッツ村の領主である、ノスヤ・ヒーム・ユーティンが行ったこと。その上で、領主自身は、この農業被害を食い止めることができると書かれてあります」
「……何ですって?」
「おっと、この書簡の内容はまだ続きますので、ご意見があれば、その後で伺いましょう」
宰相はリエラの言葉を制して、再び書簡に視線を落とす。
「二つ目は……。ここから、我が国の農業被害を食い止めるための条件ですね。まずは、帝国がラッツ村、ひいてはリリレイス王国に侵攻しないという……ふかしんじょうやく? ……どうやら、未来永劫、両国の間で戦争を行わないという講和を結ぶこと」
そこまで読んで宰相は、チラリとリエラに視線を向けた。そして、再び視線を落とし、大きく息を吸い込んだ。
「そして、その講和を結ぶのと同時に、侍医長であるライオネル・リエラを追放すること……そう書かれてあります」
「……!?」
目を見開いて固まるリエラを尻目に、宰相は手に持っている書簡を丁寧に元の状態に折りたたみ、スッと立ち上がった。
「これは、国の重大事項ですので、これから陛下に報告に上がります。あなたも、同行なさいますか? 是非、そうなさるといい」
彼は口元にニヤリとした笑みを浮かべながら、小さな声で呟く。
「あなたが、陛下のご尊顔を拝するのは、今日で最後になるかもしれませんからね」
ラッツ村のノスヤの許に、インダーク帝国から使者が送られたのは、その次の日のことだった。




