第百六十六話 予想外
インダーク帝国に異変が起こったのは、それからしばらくしてからのことだった。
帝都の人々が、まず最初に気付いたのが、いつもの朝の光景であった鳥たち、とりわけ、スズメの声が聞かれなくなったことだった。これまでは丸一日、スズメの鳴き声が絶えることはなかったが、突然その声が聞かれなくなったために、人々は一抹の寂しさを覚える者もいる一方で、日頃、喧噪に包まれている帝都が少しでも静かになったと喜ぶ者も多くいた。
だが、その光景は地方の農村部でも見られ、そこではすぐに大きな問題が発生していた。農作物を食い荒らす害虫たちが激増していたのだ。そのあまりの数の多さに、人々は対処することができずに、ただ茫然と、作物が食い荒らされている光景を眺めているしかなかった。
「……ど、どういうことでしょうか?」
朝、いつものように皇帝の回診に訪れたライオネル・リエラは、皇帝から、農村が大打撃を受けていると聞いて、目を丸くして驚いていた。
「作物が虫たちに食われておるそうじゃ。そのために、今年は、作物の収穫が少なくなると宰相から報告があった。今年は損をするのじゃ。リネラ、そちが言うておった、秋のリリレイスへの侵攻は難しいと言っておったぞ? どうするのじゃ?」
「そのお話は、初めてお聞きしました。私も確認してみます。少々、少々お待ちください」
そう言って彼は皇帝の私室から下がり、その足で、宰相の許に向かった。
「……侍医長のあなたに、政治的な報告までもせねばなりませんか?」
言葉は丁寧だが、宰相は冷たい眼差しをリエラに向けている。だが、彼は顎をクイッと上げ、まるで宰相を見下げるような形で、口を開く。
「そうした重要な事柄は知らせてください。そうでなければ、陛下のお体に触ります」
「お体に触るのであれば、それを治すのがあなたの役目では?」
「何を言われるのです。陛下のお体に触らぬように、事前に対策を行うことこそ肝要なのです。それとも、宰相様は、陛下のお加減が悪くなるのは構わない、そう言われるのですか?」
「……」
無言のまま、相変わらず冷たい視線を向けている宰相に、彼はフッといやらしい笑みを浮かべる。
「今後は、いかなる事柄も、陛下のお耳に入れる前に、私にお伝えください」
そう言い捨てて彼は、宰相の部屋を後にした。
リエラは廊下を歩きながら一人、ほくそ笑んでいた。なるほど、この手があったなと頷きながら、足早に自分の部屋に戻る。基本的にインダーク帝国では、国の重要事項の最終決定は皇帝が行うものとされている。つまり、その情報を先に掴んでいれば、皇帝を動かすことで、その決定を反故にすることができるのだ。と、なれば、宰相たち国の上層部の首根っこを掴むことにもなる。そうなればこの国は、己の意のままになる……。そんなことを考えていると、彼の心は浮きたった。
だが、事は深刻さを増していた。帝国内全土に発生した害虫の被害は、予想を大きく超えたもので、政府には日々、国内の惨状が山のように報告されてくるようになった。とりわけ、ネルムと呼ばれる、イナゴのような虫が全国で大量に発生しており、それらが作物や苗を片っ端から食い荒らしているという報告が多数を占めていた。
「……一体、いつになったら終わるのですか?」
うんざりした表情を浮かべながらリエラは、目の前に座る宰相を睨みつける。だが、彼はいつもの冷静な表情を崩さぬまま、じっとリネラを見据える。
「あなたが、陛下に報告する前に報告をせよと言ったのでしょう?」
「まさか、今、私に報告をしたことを、そのまま陛下に報告をするおつもりですか?」
「いいえ。陛下には、害虫が大量発生している点のみ報告を致します」
「……では、なぜ私だけに、そのようなダラダラとした報告をされるのです?」
「確かあなたは、いかなる事柄も、陛下のお耳に入れる前に、報告をしろと言われました。私はその通りにしたまでです」
「あなたは、いくつになるのですか? 子供ではないのですから、その点は、気を利かせたらどうです?」
「そうですか。それならば、そうさせていただきます。報告は以上です」
「害虫の報告だけですか? その他にはないのですか?」
「ええ、沢山ありますとも。沢山ありますが、気を利かせて、報告を致しませんでした。報告する事柄はあと、50を超えますが、それらも全て報告致しましょうか? ……日が暮れてしまいますね。本日の陛下の回診は、おやめになりますか?」
「……もう結構です」
そう言い捨てて、リエラは席を蹴るように立ち、部屋を後にした。彼はぶ然とした表情を浮かべたまま、王宮の廊下を足早に歩く。
……まあいい。宰相が陛下に報告をするときに、傍に私が居ればいいのだ。私の気に入らない決定を奏上して来たら、その後で陛下にお願いをして、その奏上を認めなければよいのだ。
まだまだこの帝国は自分の手中にある……そう考えていたリネラには、その三日後、驚くべきことが起こったのだった。
何と、リリレイス王国から、ラッツ村の領主である、ノスヤ・ヒーム・ユーティンから宰相宛に、書簡が届いたのだ……。




