第百三十八話 嵐のあと
おそらく、インダーク帝国が我が国に、ラッツ村に侵攻してくる可能性は低くなった。シーズは最後にそう言い切った。
ヴァシュロンとクレイドル公爵との結婚はほぼ、破談になることは間違いないらしい。そのうえ、確実に両家で諍いが起こり、それが国同士の抗争にまで発展するのだと言う。果たしてそんなことが起こるのだろうかと不思議に思うのだが、両家とも国王に近い血筋であるために、メンツを潰されたクレイドル側は、間違いなくインダークに対して何らかの公式の謝罪を申し入れることになる。だが、インダーク側もメンツというものがあり、その要求は確実に突っぱねることになる。と、なれば両国は力で決着を付けざるを得なくなるのだと言う。
「それに、お前は、超一流の殺し屋を空手で追い返したのだ。それも、我が国にとって絶大な宣伝効果がある」
ニコニコと機嫌の良さそうな表情を浮かべながら、シーズは喋っている。だが俺は逆に、その殺し屋に狙われはしないのか、その点が不安になってしまう。
「まあ、クレイドルがヴァシュロン嬢の生娘を奪ったお前を、消そうと動くかもしれないが、その可能性は低いんじゃないかな? どちらかと言えば、自分の娘をおめおめと他国に行かせたコンスタン将軍に怒りの矛先が向くだろう」
「いや、俺はそんな大胆なことをしていませんが、それでも、そこまでするのですかね?」
俺の不安をよそに、シーズは何かを考えている様子で、うふふと小さな声で笑っている。
「さて、僕はもう、王都に戻るとするかな。レーヴ嬢との婚儀……ではない、顔合わせについては追って連絡をする。それにしても……」
シーズはそこで一旦言葉を切り、今度はヴァシュロンに視線を向ける。
「あなたもこれから大変なことになるかもしれませんが、どうぞ、気を確かにお持ちください」
「どういう意味よ?」
「下手をすると、お父上のコンスタン将軍が失脚する恐れがあります。そうなると、あなたは公爵令嬢ではなくなります。その上、お父上が反逆罪などで処刑されれば、あなたには自ずとインダークから追っ手がかかることになります。そうなれば……我々としては、あなたの身柄を引き渡さざるを得なくなります。その点はあしからず」
そう言ってシーズはスッと頭を下げる。その言葉の端々から、今は公爵令嬢としてお前を扱ってやるが、公爵令嬢でなくなった瞬間から俺はお前を守らないからなという意図が込められているのを感じる。だが、そんなイヤミとも脅しともつかないシーズの言葉に、ヴァシュロンは堂々と反論する。
「おあいにく様ね。そんなことはとうの昔から覚悟はできていたわ。だから私は魔法を必死で習得したのよ。いざとなれば、私は魔法でご飯を食べていくわ」
その言葉に、シーズは一切表情を変えなかった。
「ノスヤ、お前のところには、これまでと同様に使者を遣わすから、何か不足があれば言ってくれて構わない」
そう言ってシーズは屋敷を後にしていった。
何だか、嵐のような一日だった。シーズが去った後は何もする気が起こらなかった。俺は皆を帰らせ、クレイリーファラーズを無理やり寝かせて、俺も早々にベッドに入った。
何となく、全く根拠はないのだが、俺はシーズの予想は当たるだろうと考えていた。父親が失脚した後、ヴァシュロンはどうするつもりなのだろうか。追手が来たら、彼女を引き渡すとシーズは言っていた。あれだけ言いたいことを言っていた彼女に、シーズが情けをかけるとは思えないし、事実、彼も彼女のことは守らないと言っていた。国に帰ったら彼女はどうなるのか……。そんなことを考えていると、夢を見た。ヴァシュロンは大勢の人が見守る前で、大きな斧で首を刎ねられていた。そして、その首が人々の前に晒されていたのだ。
「……」
思わずベッドから起き上がる。これは予知夢というやつだろうか? 思わず周囲を見廻してみるが、そこにはいつもと同じ、俺の寝室の景色があるのみだった。俺は再び体をベッドに横たえたが、なかなか眠りにつくことができなかった。
明け方、寝付けなかった俺は、早めに起きることにして、ベッドから降り立った。俺が起きるのと同時に、ワオンも一緒に起きてきた。まだ早いから寝ていていいよと言っても、彼女は寝ようとはせずに俺に付いて来た。
ハンモックのクレイリーファラーズは爆睡していた。彼女の朝食は、今朝は作らなくて良さそうだ。俺はワオンと二人分の朝めしをちゃっちゃと作る。メニューはいつもの通りの、スープだかシチューだかわからない食べ物だ。こいつは不思議と毎朝食べているが飽きない。我ながらよく毎日食べ続けられるとは思うが、これがなかなか美味いのだ。ワオンもこれがお気に入りで、最近は毎日俺と同じものを食べている。
彼女は朝食が出来上がる間は、まるで猫のように両前足で顔を洗い、後ろ足で立ち上がって背伸びをして大きなあくびをする。最近では後ろ足を前に投げ出し、お尻をついた状態で座れるようにもなっている。その一つ一つが可愛らしく、俺にとっては朝の癒しなのだ。
食事を済ませると、いつものように畑の様子を見ながら散歩をする。いつもより早めに屋敷を出たのだが、農民たちはもう仕事をしている。俺は彼らと挨拶を交わしながらゆっくりと見回り、再び屋敷に帰ってくる。
ダイニングの扉を開けると、何故かクレイリーファラーズが泣いていた。昨日のことで、何か思い出すことがあったのかと思いながら彼女の許に近づく。
「ううっ、ううっ、ううっ……。ごめんなさい……ごめんなさい……」
「どうしました? 何がありましたか?」
「頭痛い……。頭が、割れるように痛い……」
「え?」
「もう二度とお酒は飲みませんから、お願いですから、お水を下さい。謝りますから、冷たい、五臓六腑に染み渡るほどに冷えたお水を下さい……」
……単なる二日酔いかい。俺はため息をつきながら、彼女に水を入れたコップを渡した。
シーズから、俺の見合いの連絡が来たのは、何とその日の夕刻のことだった……。




