第百十七話 お引き取り
老婆は左手を額に当て、アチャーといった格好をしている。やはり、どうしてもこのお姫様の名前を秘匿したかったようだ。
『コンスタン・リヤン・インダークは、インダーク皇帝の弟で、インダーク帝国軍の総司令官です』
へぇ~偉いさんの娘さんじゃないですか、そんな表情を浮かべながら、俺はクレイリーファラーズを見る。
『やらないんですか?』
うん? 何を?
『……察しが悪いですね。決まっています。誘拐するのですよ。何なら、本当に手籠めにするというのも、アリといえばアリです』
「何じゃそらぁ!」
いきなり大声を出してしまったので、老婆と少女がビクッとなっている。いかんいかん。俺はスッと背筋を伸ばして、椅子に座り直す。
「どうぞ、お引き取り下さい」
「え?」
「最近、耳が遠くなりましてね。こちらのお方のお名前が聞こえませんでした。この方がどのような方でも、俺には関係ありませんから。どうぞ、お引き取りいただいて結構です」
「お……おお……何と慈悲深い……」
老婆は再び腰を折って俺に感謝の言葉を述べている。そこにクレイリーファラーズがさらに話しかけてくる。
『あの変態兄貴に怒られますよ?』
ああん? 俺は眉間に皺を寄せてクレイリーファラーズを睨む。
『この少女を人質に交渉するのですよ。停戦協定を結ぶだけでもいいのです。インダークは女性を大切に扱う国ですから、きっとこの子の命を盾に交渉すれば、上手くいきますよ。ですから……』
「やかましい!」
再び老婆が固まる。俺はコホンと咳払いをして、少女と老婆に視線を向ける。
「いや、お礼は結構ですから。まずは、お引き取り下さい」
「そうさせていただきます。さ、姫様……」
老婆に促される形で、少女は渋々と立ち上がる。そのとき、彼女はまるで宣言するように、はっきりとした口調で、こんな言葉を吐いた。
「私は、私の幸せは自分で掴み取るわ」
「アハハハハ」
突然、クレイリーファラーズがケラケラと笑いだした。
「何が可笑しいのよ!」
「あなた、おいくつかしら?」
「14歳よ」
「まだ、結婚の何たるかをわかっていないんじゃないですか?」
「どういう意味よ!」
「あなたねぇ。この人と結婚したら、この人の目の前で、服を脱いで裸にならなきゃいけないのですよ?」
「へ? 裸?」
「誠に、誠に恐れ入ります。それ以上は、お控えくださいまし」
老婆がオタオタとクレイリーファラーズを止めに入る。なるほど、そういったことは教えていなかったと。でも、よくそんなことも知らないでここまで来られたなと、俺は妙に感心してしまう。
「結婚したら、旦那様と抱き合うのでしょ? お父様とお母様がやっているように! 結婚しているから、男性は女性の体に触れることができるのだわ!」
「それは、ハグでしょ? それは表向きです」
「表向き?」
「夜になれば、裸になるのです。それも毎日です」
「な……そんな……お行儀が悪いわ!」
クレイリーファラーズがフフンと、まるで馬鹿にしたような笑い声をあげている。彼女の目が、カマボコ型になっている。
「それだけじゃありませんよ? 男性によっては……」
「ルエラ、ミルハ、コンローグ……ふんっ!」
老婆が何かを呟くと、クレイリーファラーズの声が聞こえなくなった。彼女はそれに気が付かずに、気持ちよさそうにしゃべっていたが、やがて声が出ないとわかると、焦った様子で立ち上がり、自分の首を押さえて必死で声を絞り出そうとしていた。
「……しばらく、お静まりいただきます」
「同感です。感謝いたします」
「ねえ、パルテック。今の話、本当なの?」
老婆は優しい表情を浮かべながら、ゆっくりと顔を振っている。
「ま、そのうちあなたにもわかりますよ」
「まさか、あなたも女性に対して裸にするようなことをするの!?」
俺は窘めたつもりだったのだが、まさか、こんな反撃にあうとは思ってもいなかった。
「どうなのよ?」
ずいっと顔を寄せて俺を睨んでくる。尻を叩かれたくらいで、手籠めにされただの、何だのと言ってくるくせに、これは彼女的には許容範囲なのだろうか? あちらの息がかかるのが分かるほどの距離まで顔を近づけてくるのだ。俺だったら、こっちの方がイヤだ。
「俺は……したことはない」
「ふぅ~ん」
彼女は納得したような、していないような表情を浮かべていたが、やがて、老婆に促される形で、渋々と席を立った。そして、俺に視線を向け、レークとワオンに視線を向け、最後に屋敷をぐるりと見まわして、スタスタと玄関に向かって歩いて行った。その後をレークが見送りのために追おうとするが、老婆が手を挙げて彼女をとどめ、ニコリと笑いながらゆっくりとお辞儀をして、そのまま出ていった。
しばらくすると、馬の蹄の音が聞こえ、やがてそれの音は徐々に遠くなっていった。
「……やろう! バカヤロウ! ……あれ? 声が出る!」
突然、クレイリーファラーズの声が屋敷に響いて、俺はビクッとなる。そんな俺に、彼女ははぁぁと安心したような表情を浮かべる。
「よかったですね、声が出て。何だったら、しばらくそのままでもよかったのに」
俺がさも残念そうな顔で言っているにイラッとしたのか、怒りを込めた目で、しばらく俺を睨み続けた。
兄・シーズの使者がやってきたのは、それから三日後のことだった。




