第百十六話 聞いてはいけませぬ
屋敷のダイニングに、沈黙が流れる。どうやら誰か来たらしい。レークがパタパタと玄関に出ていく。しばらくすると、老婆の声が俺たちのところに聞こえてきた。
「あのぅ……こちらに、若い女の方がお邪魔しておりませんでしょうか?」
その声を聞いた途端、目の前の少女が、まるでこの世の終わりを迎えたかのような表情を浮かべる。一体何事かと思っていると、再び老婆の声が聞こえた。
「……どうやら、おいでになるみたいですね。ちょっと、あがらせていただきますよ?」
「え? あの……ちょっと……」
レークの声とともに現れたのは、杖を突き、ちょっと腰の曲がった白髪のお婆さんだった。きれいに髪を結い上げて、仕立てのよさそうな服を着ている。一見しただけで、庶民ではないことがわかる。
「ほぅら、おいでになった」
少女を見つけた老婆は、本当にうれしそうな表情を見せ、まるで愛おしいものと再会したかのように、体をゆすりながら、フエッフエッフエッと笑った。だが少女は、まるでイヤなものを見たかのような表情をしていて、腕を組みながら、顔をプイッと背けた。そんな振舞いをされてなお、老婆は表情を変えることなく優しいまなざしを彼女に注いでいる。そして、そのまま俺に視線を移し、ゆっくりと語りかけてきた。
「あなた様が、このお屋敷の旦那様でしょうか?」
「え……ええ」
「この度は、こちらのお方が、ご迷惑をおかけしましたね。いえ、言わなくともわかります。そのお顔に、ちゃんと書いておりますよ。この度のことは、この私から重々お詫びを申し上げます。何卒、お許しくださいませ」
そう言って彼女は、曲がっている腰をさらに折り曲げて、俺に詫びを入れた。
「ちょっと! いつもそうやって私の邪魔ばかりするの、やめてもらえないかしら!」
「これは婆が悪うございました。お叱りは後で頂戴するとしまして、まずは、こちら様にもご迷惑になりますから、一旦、お戻りあそばしませ」
「戻ったところで、どうするのよ? お父様が決めた相手と結婚しなきゃいけないのでしょ? そんなの、まっぴらよ!」
何やら、難しい問題をこの二人は抱えているようだ。おそらくこの老婆も、インダークの人間であることには間違いはない。この少女といい、老婆といい、かなり身分の高い人と見た。巻き込まれると、色々とややこしいことになりそうな雰囲気がするために、俺は早くこの二人にお引き取りをいただくべく、口を開く。
「あの……そういった話は、お家でやっていただいてですね……」
「そうです。ええ、あなた様のおっしゃる通りでございます。さ、婆と一緒に帰りましょ」
まるで子供をあやすかのように、老婆は優しい口調で少女に話しかけている。だが彼女は俺に視線を向けると、突然指をさして、怒気を込めたような声で語り始めた。
「私、この人に手籠めにされたのよ! だからこの人に責任を取ってもらわないといけないわ! 私、この人と結婚するわ! 誰が何と言おうとも、結婚するの!」
その言葉を聞いて老婆は言葉を失う。柔和な笑顔そのままで固まっている。
「い……今、何と? 何と言われましたか?」
「手籠めにされたのよ! お尻を触られたわ」
「いや、これはですね……」
「詳しく話を承りましょうか?」
老婆は笑顔で俺に尋ねているが、こめかみのあたりがピクピクと動いている。何か、怒っていますよね? それはそうか、いきなり手籠めにされたなどと言われたら、誰だって驚くよね。
俺はコホンと咳ばらいをして、これまでの経緯を語る。
「……あれほど町中で魔法を使ってはならぬと申し上げましたのにっ。姫様!」
「姫様ぁ?」
声を上げた俺を見て、老婆が目を丸くして驚いている。
「こちらの方が、インダークから来られていることは薄々わかってはいましたけれど……まさか、お姫様だったとは……。差支えなければ、どちらのお姫様か、伺っても? 俺は、この村を治めている、ノスヤ・ヒーム・ユーティンと言います」
「あなた様が……」
「ほら、ね? パルテック。あの、ノーイッズ様と対等に渡り合って、追い返した方よ。お父様も言っておいでだわ、優秀な男と結婚しろと。私の結婚相手にちょうどいいと思わない? インダークからも近いわ!」
「黙らっしゃい!」
突然老婆が声を荒げる。怖い……。俺は肝っ玉が震えあがりながら、事の成り行きを見守る。
「姫様、結婚というのは、そのように簡単なものではございません。そうした世情のことをお伝えしなかったのは、この婆の誤り……。まずは姫様、帝国にお戻りあそばせ。外に迎えの馬車も連れてきております。何卒、この婆と共にお戻りくださいまし」
彼女は、スッと俺に視線を向けると、再び曲がった腰をさらに折って一礼をした。
「ご無礼の段は、平にご容赦くださいませ。今、ここで姫様の御名を申し上げることは、ご勘弁くださいまし。今、このリリレイス王国とインダーク帝国は、戦争状態に突入するかもしれぬ間柄でございます。一つ間違えば、このお方が、戦争の引き金を引くことになります。それだけは致しとうございません。どうか、勝手なことを申しますが、この婆の心をお汲み取りいただきますよう、伏してお願い申し上げます」
「……わかりました。俺も、インダークと戦争状態に入るのは避けたいと考えています。結構です。まずはこのまま、お引き取り下さい」
「おお! 感謝申します」
老婆は両手を組み、まるで神に祈るかのようなポーズを取りながら、俺に何度も礼を言った。
「ちょっと何よ! そんなに私の存在を消したいの? パルテック、あなたもお母様と同じなわけ? どこに出しても恥ずかしくない女性だって、あなた言っていたじゃない!」
少女はそう言って俺に向き直り、両手を腰に当てて、顎をクイッと上げた。
「私は、ヴァシュロン・リヤン・インダーク。父、コンスタン・リヤン・インダーク公爵の娘よ」
聞いてはいけないことを、聞いてしまったのかもしれない……。




