P/始まり―6
「珍しいこともあるのね……ここ、噂にはなるけど来る人ほとんどいないから」
そう言いながら、女性は部屋の中に入っていく。
「まあ、こうやってあったのも何かの縁ね。私の名前は、焔夜 志桜里。ここの三年よ」
よろしくねと、志桜里は結に向かって手を出した。
「よ、よろしくお願いします」
結は、声を上擦らせながら握手に応じようとする。
今まで、彼はこのような事を体験したことがなかった。
それもそうだ。彼は、なるべく“人間関係”から避けるようにここに来てからずっと生活してきたのだ。言ってしまえば“青春”の一ページのような体験などすることなどできなかったのだ。
そのせいなのか、声に緊張が現れるほど動揺してしまった。
それを感じ志桜里はにこやかに笑いながら、そっと手を握り返す。
「ここ、ほとんど人も来ないし静かだからゆっくりするのにはちょうどいいのよね」
「えっと……そうですよね……」
志桜里は、手を放しこの部屋唯一の窓に歩み寄り外の景色に目を向ける。
そこから見えるグラウンドでは、様々な運動系の部活が練習をしている。
走り込む生徒もいれば、端のほうで集まってさぼっている生徒もいる。
それを志桜里は、まるで慈しむかのように眺めている。
(どうしてこの人はこういう顔をしているのだろう……知り合いとかいるのかな?)
その顔を見て、結はふとそう思った。
慈しむかのような顔など、それこそ深い知り合いや家族などにしかできない。
もし、そうでなかったらなぜ赤の他人たちが集まっているその風景をまるで女神のような笑顔で見ることができるのだろう。
(もし、もし、あの中に家族がいなくて全部が全部赤の他人だとしてだ………彼女が俺だったら……俺にはあんな顔できないだろうな)
彼は自分だけのエゴで、家から一人抜け出し一人で暮らしている。
自分以外には頼れず、家族から避けてきたので家族にも頼れない。
自分以外に優しそうな顔を向ける余裕は、彼にはなかったのだ。
(この人は……俺にはできないことを平然とやっている……少しうらやましい)
彼女の今の姿と自分の今の現状を照らし合わせ、自分には到底無理だと彼は思った。
そこで、彼がふと気づくと志桜里がこちらに振り向いていた。
彼女は、ところでと口を開ける。
「そう言えば、私は名前言ったのにあなたからは聞いてなかったわね。礼儀よ?名前を言われたら名前を返すのわ」
そう言えば、と彼自身も気が付いた。
緊張しすぎていたのか、そのようなことをすっかりと忘れていたのだ。
「あ、ご、ごめんなさい。……二年の未治 結です」
彼は、すぐに自分の名前を言った。
「ふ~ん……未治くんか」
そう言って、志桜里は机のほうに目を向けた。
机には、本が6~7冊ほど置いてあり結自身も本を持っていた。
本の虫、そう言われても差し支えないほどだった。
「まさしく、本の虫ね……だというのにインドア派っぽい陰険さはあまりないわね……むしろがたいが結構いいし」
「え、えーと?」
急に、独り言のように結の事を客観的に言いだした志桜里に対して結は少し困惑した。
「あ、ごめんなさい。嫌味とかそういうのじゃないのよ。初めてあった人のことを自己分析する癖があるの。しかも、やってるとすぐに口から出ちゃうのよね……まったく変な癖よね、我ながら」
志桜里はそう言いながら、苦笑する。
「そ、そうですか……」
結もそれに対して反応を返す。
しかし、そこから―――
「…………」
「…………」
二人に間に沈黙が訪れる。
結は、そこまで社交的ではなく会話を続けることができなかった。
志桜里も、流石に初対面の相手に対してさらに会話を続けることができなかった。
「あー……ねぇ、未治くん」
それでも、志桜里の方は結より社交的な性格だったのか会話を新しく切りだす。
「は、はい!」
沈黙状態から急に声をかけられた結は、少し驚きながらも返事を返す。
「いや、少し聞きたいんだけどね……図書館にある本で何かおすすめとかあるかしら?」
「お、おすすめですか?」
「うん、おすすめ。私あまり本読まないから何かいいの無いかなと思って」
結は、そう言われ自分的にお勧めできるものはないかと考え始める。
あれがいいか、いやこれのほうがいいかと頭の中で考える。
しかし、どれもだめかもしれないと結は結論付ける。
それは、結の趣味と志桜里の趣味が違うものだと考えたからだった。
例えば、自分が好きなものを全力で他の人に勧めたとしてその人がそれを見たり使ったりするかと言われれば違うといえる。なぜなら、その人にはその人の趣味がありその人の興味があるものでないと勧めても「興味がない」と突っぱねられたりするからだ。
結は、それを考えた上で志桜里に対して話す。
「……えーとですね……ごめんなさい。その……焔夜先輩が読みたい本がどんななのかわからないと……だから……」
「あー……そうね、確かにそうよね。ごめんなさい。その、沈黙にちょっと耐えられなくてね?」
志桜里はそれを聞いて、思い付きで沈黙を突破できないかとやったことに対して謝る。
「でも、何かいいのがないかなと思ったのは事実よ?見識とか、そういうの広げるのは大事だから。実際何でもいいから、読んでみようとか思っていたしね」
「そうだったんですか……」
それを聞いて、また少し結は考える。
「だったら、ライトノベル置き場の物がおすすめですかね……」
「ライトノベル置き場?」
「はい、あの場所には……普通のライトノベルの物だけじゃなくて推理小説とか同じ大きさの物だったら何でもあるんですよ。片手間で読んだりするんだったら……多分そこにおいてある物がおすすめです」
「ふーん……ありがとう、今度見てみるわね」
と、志桜里はそのお勧めに対して言った。
(ふ……ふうこれで何とかなったかな?)
それに対して、心の中で安堵する結。
さて、と志桜里が話そうとしたときに結は時計を見た。
時計の針は、5時半を指していた。
「……ッ!すいません、そろそろ俺帰ります」
「あら、そうなの?」
「ハイすいません!!」
「……急ぎのようね?…それじゃ、急いだ方がいいわよ?」
「あ、ありがとうございます!!」
そう言って結は、荷物をいそいそと片づけ始める。
机の上の本も乱雑にカバンの中に詰め込み、カバンを肩に掛ける。
「それじゃ、すいません。失礼します、焔夜先輩!!」
「ええ、じゃあね未治君」
彼女の声を聞くと、結は部屋から駆け足で出ていく。
(まずい……そろそろ、スーパーの値下げの人が出てきちゃう)
バイトで生計を立てながら生活している彼にとっては、スーパーの値下げはそれはそれは重要な事だった。
(……焔夜先輩いい人だったな)
そう思いながら彼は、廊下を怒られない程度のスピードで歩いていった。
「……ちょっと面白い子だったわね」
そう言いながら、志桜里は日の沈む外の光景を窓から眺めていた。
結の姿も確認できて、走って校門の方まで向かっているのも見えた。
「ライトノベルの置き場か……」
先ほど彼が言っていた、本のおすすめのことを思い出しながら彼女はその走っていく姿を見ていた。
その眼は、先ほど結がみたまるで慈しむかのようだった。
そして顔は、大切なものを守ることができた親の顔のようだった。